『社会学評論』の千田論文について(2)

2022.4.21 追記あり

2. トランスイシューに関する記述について

 前のエントリの続きです。こちらのほうが本題。

 先に述べたとおり、6節はここだけ「フェミニズムジェンダー理論」の著作の紹介という形をとっていないという点で異様なのですが、その代わりに語られている著者自身の時代診断のうち、トランスイシューに関する部分は特に問題が多く、「現在こうなっている」と著者が語ることの多くがトランス差別的なクリーシェをなぞっていると私は思います。

 ぱっと見で気づいたところだけ順番に引用して指摘していきます。

こんにち、「女性が子どもを産む」という身体的な特徴の描き方のみならず、「母親」という言葉自体が、トランス差別であると批判 さかねママ ない。出産する「トランス男性」や出産できない「トランス女性」に対する排除的表現だからだ。政治的に正しい表現は、「子宮をもつひとが出産する」となる。このようにいわば、女性の身体のみが, パーツ化されていく傾向があり、たとえば男性が「前立腺のあるひと」とよばれたりすることはあまりない。(pp. 426-427)

 「トランスジェンダーをめぐる論争が先鋭化している」と言われて最初に唐突にでてくるのがこの文章です。「○○という言葉自体が差別であると批判されかねない」という言い方はいかにも差別を指摘する主張を戯画化するテンプレという感じです。ちなみにこの文には注がついていて、「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」と書かれています。しかし私が調べた限りでは、スコットランド政府が

  • 「母親」という語がトランス男性およびトランス女性を排除するものであるがゆえに
  • 妊娠出産政策からその語を削除した

という事実を確かなソースにもとづいて見つけることはできませんでした*1。「政策から削除した」という書き方も曖昧で、何の文書のことなのかちゃんと特定した上で断定しているのか、非常に不安になります。普通、こういう誰でも知っているわけでもない事実を論文で提示するときにはソースをつけますよね。

 ともあれ内容的には、トランス男性やAFAB(出生時に女性に割り当てられた)ノンバイナリーに配慮する表現を女性差別的だと指摘することはよくあるトランス差別言説であり、論文の記述はそれに非常に近いものになっています。有名なのはJKローリングが「生理のある人」という表現が用いられている記事を揶揄して批判を浴びた事件でしょう。

 ローリングが揶揄した記事について言えば、「女性」という言葉にトランス男性やAFABノンバイナリーに配慮する表現が不可されたのは、健康・衛生上の施策にトランスジェンダーの人々が包摂されてこなかった背景があるからです。時に命にもかかわるそうした施策から排除されてきた人々を包摂するという課題があって、その文脈で排除的な言葉使いが見直されているのです。そうした背景には一切触れずに、あたかもいつでもどこでも特定の言葉を使うことを禁じる言葉狩りが行なわれているかのような描写をおこなうことにおいて、「○○という言葉自体が差別であると批判されかねない」というのはトランス差別の紋切り型なのであり、論文の記述はそれをなぞってしまっています。

次。

第二波フェミニズムはたしかに、1970 年代には「遅れてきた」「最後の」革命のようにみえたがその後さらに新たな革命がおこった。ゲイ解放運動、そしてトランスジェンダーの解放運動である・とくにLGBT(Q) という概念がつくられたことにより、性的指向ジェンダー・アイデンテイティをめぐる運動が連結された。世界的には同性婚という目標が達成されたあと、運動の焦点はトランスジェンダーの権利獲得へと移行した。トランスジェンダーは「アンブレラターム」であり、トランスセクシュアル性同一性障害はもちろん、クロスドレッサートランスヴェスタイト、異性装) 等を包括的に含む概念である。トランスセクシュアルは身体違和からの身体変容を希望するが、トランスジェンダーは。生まれたときに割り当てられた身体のままでいたいひとたちを含んでいる。これらの「あとからきた」運動から、フェミニズムは「マジョリティ」である女性のための「排他的」な運動であると、激しい批判を受けることになった。(p. 427、強調引用者)

 内容としてはフェミニズムが同性愛解放運動やトランスライツ運動から批判されたという歴史的経緯が書かれているだけなのですが、すごく変な記述になっています。同性愛解放運動やトランスライツ運動が70年代以降に起こったという歴史観にもおおいに疑問がありますが、それは置くにしても、上の引用で太字にした部分は、段落の内容にまったく関係ありません。運動史の記述の中になぜ突然トランスジェンダー概念の解説が挟まるのか不明です。

 さらにそのトランスジェンダー概念の解説が問題含みです。「トランスジェンダー」がアンブレラタームであるというのは事実ですが、そのこと自体、脱病理化を求めてきた運動の歴史の帰結なのですから、「アンブレラタームだ」と言っておいて、「トランスセクシュアルトランスジェンダーは違う」というふうに医療/病理的文脈を持つ語彙と運動的文脈を持つ語彙を比較してみせるのは用語の歴史性を無視したおかしな解説です*2(運動史について述べてる箇所なのに)。そして、そのようにして歴史を無視した比較をすることで「トランスジェンダー」を一部のおかしな人たちのように印象づけようとするのは、やはりよくあるトランス差別のやり口なのです。

次。

すでに述べたように、バトラー等によって、セックスは構築物であるとされた。セックスが社会的につくられているのであれば、そこから自由になる権利が要求されるようになるのは、ある意味で当然の流れかもしれない。……アイデンテイティが社会的構築物であるという指摘は、その再編成を帰結し得る。「変更不可能な強固なジェンダー・アイデンテイティ」の物語から、「変更可能で柔軟なジェンダー・アイデンテイティ」(男でも女でもないノンバイナリーか、「昨日の自分は『女より』だったけれども、今日の自分は『男より』」といったジェンダー・フルイドまでを含む) の物語へと移行したようにみえる。(p. 427)

 こうした記述を読むと、まるでトランスジェンダー(とりわけノンバイナリーの人やジェンダーフルイド)の人が自分たちのアイデンティティについて、「変更可能で柔軟な」ものだと主張していると書かれているように見えます。しかし実際は逆で、トランスジェンダーの人がトランスをするのはむしろアイデンティティが自分の意思ではどうにもならないという意味で「”変更”不可能」なものだからでしょう。曖昧だったり揺れ動いたりすることはあるでしょうけれど、そのことと「変更可能で柔軟」であるということは論理的に言ってまったく別の話です。

 そして、ジェンダーアイデンティティをまるで自由につけかえられるアクセサリーのように捉えることは、自由にならないがゆえにシス中心社会の中で苦しむトランスジェンダーアイデンティティの軽視に繋がりますし、「変更可能で柔軟」という捉え方をするのはコンバージョンセラピー(アイデンティティを「矯正」しようとする療法)の正当化にも繋がります。いずれもトランス差別言説の中でよく出てくる紋切り型です。

次。

……女湯に関しては、 裁判所や医療による認定を介在させない性別変更(=セルフID) が犯罪者によって悪用されるという懸念と、ペニスがついているからといって女性扱いしないのは「ペニスフォビア」だという主張との間で、激しい応酬がSNS を中心になされている。(p. 428)

 これは「一部のフェミニストの間にトランス排除の動きがある」と日本学術会議の提言の中で言われている背景について著者が自分の見解を述べている部分です。ここだけ読むと、「ペニスがついている」トランス女性を女湯に入れないのは「ペニスフォビアだ」という主張をトランス女性がしているように読めます。けれどそんな主張が「激しい応酬」を構成するような量でおこなわれているという事実は私の知る限りではありません。また、「セルフIDが犯罪者によって悪用される懸念」についても、実際にはそれだけでなくトランス女性そのものを潜在的犯罪者とみなすかのような差別的言説も数多くあるのですが、そのことには触れられていません*3。要するに、「対立」を紹介するにあたって双方の主張に対してチェリーピッキングがおこなわれ、「一部のフェミニスト」がまともに見えるような印象操作がおこなわれているように見えます。

最後。

主張されるべきは、トイレや風呂が「公共的に」整備され、何人も排除されず、万人に開かれていなければならないということであり、同時に「プライバシー」や安全が確保され、どのような身体もが、なにものにも脅かされるべきではないこと、そのイシューのために女性とトランスジェンダーは手を携えて連帯可能であるし、連帯すべきということではないか。(p. 429)

 書かれていること自体はごもっともなのですが、その中でさらっと「女性とトランスジェンダー」と書いてしまう、そういうところです。

小括

 以上、トランス差別のクリーシェと同型になっているところをすぐ気がつく範囲で指摘しました。細かく見ればもっといろいろ言いたいことはありますが、たかだか3頁ちょっとの文章にいくつもこうした点があるのです。しかも、著者の時代診断にはなぜそう判断したのかの根拠がほとんど示されていないため、読者は著者のその診断の真偽なり是非なりを事実を辿って検討することができません。読者が検討できない形でトランス差別的なクリーシェがなぞられているのは、学術論文として問題があると私は思います。

まとめ

 二つのエントリで千田論文の構成上の問題とトランスイシューに関する記述の問題を指摘しました。私はふたつの問題は関連していると思います。「自明ではない事実を書くときには典拠を示す」という論文を書く際の普通の作法が守られていれば、6節の記述はより問題の少ないものなったでしょう。またそもそも、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」を論じるという論文の趣旨に従って6節が書かれるのであれば、そこはトランスジェンダーフェミニズムの関係をめぐってこれまで論じられてきたことが紹介され検討されるべきだったはずです*4。そうなっていたら6節の内容はまったく違ったものになっていたでしょう。仮に編集者がトランスイシューに明るくなかったのだとしても(編集者もフェミニズムの専門家なので私はあまりそうは思えないのですが)、論文の通常の作法や、構成上の問題については査読段階で指摘できたはずだろうと私は思います。

 なぜそうならなかったのか、私にはわかりません。ただ、結果的にこうなったことによって、日本社会学会(の中のジェンダー研究者)にはトランスジェンダーに対する偏見や差別的感情があるのではないかという疑いが読者に生じたとしても無理のないことだと私は思います。私だってそんな疑いを持ちながら学会に参加するのは嫌だと感じますから、トランスジェンダー当事者の研究者(特に若手の研究者)にとっては学会参加が恐怖と感じられてしまうかもしれません。だから、この論文の記述に学問作法上の問題と倫理的な問題を感じる日本社会学会会員もいるよということを、まずは急いで表明しておきます。

2022.4.21 追記

 千田さんが私の「『批判』にこたえて」という文章を公開されたようなので少しだけ追記。

 まず私はこの件で千田さんと何か議論をしようとは思っていません。二つのエントリの目的はあくまで、差別的なクリーシェと同型の記述を含む論文が社会学評論のジェンダー特集の巻頭に掲載されたことに若手の研究者やトランスジェンダー当事者の研究者がショックを受けたり学会での研究活動に対して不安を覚えたりするのではないかという懸念から、「こうした記述を問題だと思う学会員もいる」という感想を表明することです。

 ですから、それに対して千田さんが「いやこのように差別的ではないのだ」という説明をされて、それを読んだ若手研究者や当事者の研究者が「なるほどよかった」と思って安心できるならそれで終わりです。私には安心できるような説明には思えませんでしたが、そのことをさらに千田さんご本人に説明しても上の目的に対して資することはありませんから、あとは読んだ人が考えればよいことです。

 一点だけ、私のエントリに好意的な方にも十分伝わっていないと思われる点があったのでそこだけ補足をします。このエントリで最初に疑問を呈している、「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」という千田論文内の記述についてです。

 この点について千田さんはこのように応答されています。

3.ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの検証を御存じないのですか?

小宮さんの力点は、批判の2にあるとご自身もおっしゃっていますから、こちらに移りましょう。まず小宮さんが

しかし私が調べた限りでは、スコットランド政府が
「母親」という語がトランス男性およびトランス女性を排除するものであるがゆえに
妊娠出産政策からその語を削除した
という事実を確かなソースにもとづいて見つけることはできませんでした。

というのにかなり驚きました。2021年の10月のBBCのNolan Investigatesのポッドキャストにおいて、政府、オフコム(英国情報通信庁)、BBC等が、ストーンウォールUKのダイバーシティプログラムの過大な影響下にあることが明らかにされたのは、この問題に関心がある人ならば、割と常識に属することかと思っていたからです。

千田さんはこのように大仰に驚かれて、リンク切れのタイムズの記事とデイリーメールの記事を「これがソースだ」と言わんばかりに掲載されているのですが、私は当然そのふたつの記事は知っているのです*5

 

 私がこのエントリで書いた疑問は、ひとつは

  • それらの記事で言及されている事実は本当に「スコットランド政府の妊娠出産政策」ですか

ということです。

 というのも、私が調べて(というか調べきれずに教えてもらって)わかった限りでは、ストーウォールのプログラムに応えて “you must be the expectant mother’s spouse or partner” という文が “you must be the spouse or partner (including same sex partner) or the pregnant woman” という文に置き換えられたスコットランド政府の文書というのは、政府組織内の産休ポリシーであって、政府の妊娠出産政策ではないようなのです。

 

 もうひとつは、その記述の置き換えが、千田論文に書かれているように、

  • 「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」「出産する『トランス男性』や出産できない『トランス女性』に対する排除的表現」であるという理由でおこなわれた

という根拠が見つけられないということです。

 そもそもふたつの文を見ればわかることですが、“mother” を “pregnant woman” に置き換えることがトランス男性やトランス女性への配慮になっているとは考えにくいですよね。

 

 以上二点から、「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」という記述の根拠に「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」という「事実」を何の注釈もなしに持ってきちゃってるの大丈夫ですか、と書いたわけです。

 さらに言えばデイリーメールが取り上げていることからもわかるように、ストーンウォールがやっていることを「言葉狩り」のように思わせるために「○○という言葉自体が差別だとされる」と言うのもまた反トランス言説のテンプレのようなもので、スコットランドの maternity policy の話もそのためによく持ち出される例のようです。

 そうした背景がある以上、「母親という言葉自体が差別であると批判されかねない」の例に「スコットランドでは妊娠出産政策から『母親』という単語を削除した」を挙げることを単なる「史実」として読めというのは無理というものです。

 まさか千田さんが反トランス言説のネットワークから情報を得てそのまま論文に書いているとは思いませんが、本当に「母親という言葉自体が差別であるという理由で妊娠出産政策から削除された」という事実があるのでしたら、信頼できるソースなり具体的な政府文書なりからそのことを示すのは、差別問題という繊細な事柄を扱う論文として必須だっただろうと私は思います。

 

*1:私が調べていて教えてもらい確認できたのは、スコットランド政府が政府内の産休ポリシーを修正したという事実だけで、これは「妊娠出産政策」についてのものではありません。

*2:トランスジェンダーに関する用語の歴史についてはこちらこちらなどを参照。

*3:さらに言えば法的性別変更の仕組と性別で分かれたスペースの運用の仕組は法的に同一ではないのですが、そのことにも触れられていません。両者を同一視して「セルフID」を攻撃するというのもトランス差別言説の紋切り型です。

*4:世界的にはフェミニズムの中のトランス排除は昔からある現象で、そのことに対するフェミニズム内での反省的考察もたくさんあり、特に2000年代以降のトランスフェミニズムの蓄積が触れられていないのはとても奇妙です。日本に限ってもトランスジェンダー当事者がフェミニズムについて論じた文章はあります。

*5:というかタイムズの記事はこれだと思うので、リンク切れてないですよ。