『現代思想』の千田論考について

はじめに

 『現代思想 フェミニズムの現在』に収録されている千田さんの論考「『女』の境界線を引き直す―『ターフ』をめぐる対立を越えて」を読みました。いろいろと問題を感じましたが、それ以前に非常にわかりにくかったので、その点について簡単にまとめておきます。

 千田さんの論考についてはすでにトランス当事者の方が千田さんの論考に対しておかしいと感じる点を丁寧にまとめているブログがあるので是非読むことをおすすめします。

snartasa.hatenablog.com

  千田さんご自身はこのブログを「誤読だ」と言っています。

note.com

 けれど、以下述べていくように、私は千田さんの論考は構成も内容も決して明確ではなく「正読」が何であるのかを掴むのが大変に難しいと思うので、特に当事者の方がトランスフォビックに感じられる点を強く受け取めるのはある意味当然のことではないかと思っています。

主題設定について

 タイトルにもあるとおり、この論考の主題は「『ターフ』をめぐる対立」だと言われています。けれど私はまずそれがどんな対立なのか、タイトルを見てすぐにイメージできませんでした。

 読んでいくと、p. 247に「誰がトランス排除的なフェミニストであるのかをめぐって争いが起きている」と書かれていて、どうやらこれが「『ターフ』をめぐる対立」と言われるもののようだとわかります。

 しかし、この1年くらいTwitterで多少なりともこの問題をウォッチしてきた者として言えば、「誰がターフなのか」という争いはあまり(というかほとんど)見たことがありません。経緯の説明では我々が出した声明も言及されていますが、我々の声明は「トランスジェンダーに対する差別的な見解を憂慮する」ものであって、「誰がターフか」という問いとは無関係です。

  もう少し読み進めると、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」について混乱や対立があるという話が出てきます。これはそのとおりで、それを「解きほぐして考える必要がある」という主張にも全面的に同意します。けれどこれも「誰がターフか」という対立ではありません。

  結局、「誰がターフか」という(あまり見かけない)問いがなぜ考察の主題として設定されているのか、冒頭部分を読んでもよくわかりません。

1節「『生物学的女性』vs. 『セルフID』?」について

 よくわからないまま1節に進みます。タイトルだけ見ると、この節では「対立」の双方の主張が紹介されるのかなと思うのですが、中身はそうなってはいません。

  最初にバンクーバーの非トランス女性限定DVシェルターが攻撃されたという話が紹介されますが、これが何のための紹介なのかは説明がなく不明です。

 続いてJKローリングがマヤ・フォーステーターを擁護して「ターフ」と非難されたという話が紹介されます。「生物学的性別は2つしかない」「性自認で性別が決まるという"セルフID"で性別変更を可能にすると女性の権利が守られなくなる」というマヤの言葉が報道記事から引用されていて、タイトルの「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」はここから取られているのだとわかります。

 ではこの「対立」の中身が紹介されるのかと思うとそうではなく、「プライベートな場所の性別分離のあり方が問われている」という論点が引き出されて話は日本の女湯へと移っていきます。

  では「プライベートな場所の性別分離のあり方」をめぐる日本での議論が紹介されるのかと思うとそうでもなく、そこで書かれているのは千田さん自身の主張です。しかもそこでおこなわれているのは日本のトランスアクティビストの発言に異論を唱えることです。

 ひとつは「今日明日にでもペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージを喚起するのはあきらかにトランスジェンダーの排除を意図したデマです」という三橋順子さんの発言に対する、「将来の不安がかき立てられているという側面があるのではないか」という主張。

 もうひとつは「ターフがペニスのことばかり語っているのは異常な光景だ」という畑野とまとさんの発言に対する、「彼女たちの意味世界に寄り添えばそれは十分理解可能だ」という主張。

 このふたつの主張はどちらも問題含みだと思うのですが*1、それよりわからないのは、なぜここで千田さんが突然自分の主張をしているかです。三橋さんにせよ畑野さんにせよトランスフォビックだと思われるフェミニストの発言のおかしさを指摘しているわけですから、まずはフェミニストがどんなことを言っているのかを紹介しないと、三橋さんや畑野さんの発言がそれらに対するどういう批判なのか読者はわからないでしょう。その状態で三橋さんや畑野さんの発言に対する自分の異論を述べるのは、「対立」について(それがどういうものだと著者が考えているかを読者に伝えないまま)単に「ターフ」の側を擁護しているようなバランスの悪さを感じます。

  こうして結局「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立が何なのかは読者にわからないまま1節は終わります*2

 「対立」ということで、ここまで「誰がターフなのか」という対立、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立の三つが出てきていますが、それぞれがどういう対立で、相互にどのような関係にあり、千田さんがどれについてどう考えたいのか、説明がありません。

 2節「ジェンダー論の第三段階」について

  2節では「ジェンダー論の三段階」なるものが提示されます。

 第一段階は「ジェンダー」という概念の登場で、「ジェンダーアイデンティティ」や「ジェンダー・ロール」が社会的に作られることが主張されたそうです。ジョン・マネーやロバート・ストーラーの名前が挙げられています。

 第二段階はポスト構造主義以降で、「言語」に着目することで「身体」も社会的に作られることが主張されたそうです。ジュディス・バトラーの名前が挙げられています。

 そして第三段階は現在入りつつある段階で、「身体もアイデンティティもすべては『フィクション』であるとされるのだったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張」だそうです。

 私も20年近くジェンダー論を勉強していますが、この三段階説は寡聞にして聞いたことがありません。私が不勉強なことを差し引いても、決して一般的に流通している説でないことは確かです。「私なりに大雑把に分ければ」と書かれているので、千田さんオリジナルなのかもしれません。

 さて問題は、オリジナルなことではなくて、この三段階説がよくわからないことです。私には、そもそも「段階」として成立していないように思えます。

 マネーのような性科学者を「ジェンダー論」と呼ぶことには違和感があるし、バトラーの読解にも異論はありますが、それはおいておきます。大雑把に「『性別は社会的に構築されている』という主張を学者が推し進めてきた」というくらいに受け取っておきましょう。つまり、第一段階は「アイデンティティやロールが社会的に作られる」という事実的主張、第二段階は「身体も社会的に作られる」という事実的主張だと受け取っておきましょう。

 ところが第三段階だと言われているのは「再構築は自由におこなわれるべきだ」という規範的主張です。これがどのような意味で「ジェンダー論の三段階目」なのか、二段階目までとの繋がりが私には理解ができません。

 具体例に挙げられているのはトランスの話に加えて「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説」で、「身体は自由に作り上げてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している」のだそうです。

 ここを読むと、「再構築は自由におこなわれるべきだ」というのはジェンダー論者の主張じゃなくて、(「第二段階」の主張を受けて?)一般の人びとが持つようになってきた考え方を指しているように読めます。だとするならば、なおさらそれは「ジェンダー論の第三段階」ではないはずです。「人びとがそう考えるようになっている」ということと「ジェンダー論がそう主張している」ということは別のことですから。

  このように、この三段階モデルは賛同するかどうか以前に「段階」として理解するのが私には難しいのですが、このモデルを出すことで千田さんが何をしようとしているのかはそれに輪を掛けて理解するのが難しく感じます。

 2節の後半部分で語られているのは、スポーツとトイレについて、二元的な性別とは異なった仕方で分割線を引き直すことを考えよう、という主張です。この主張については私は方向性としてはほとんど同意します。けれど、この話が「三段階説」とどう関係しているのかがよくわかりません。「三段階目」に達すると、スポーツやトイレについてそうした見方が可能になる、ということなのでしょうか。けれど千田さん自身あまり「三段階目」の主張にコミットしているような書き方はされていないので、そう読むのも不自然に感じます。

 また、スポーツやトイレについて二元的な分割の維持を強固に主張しているのはどちらかといえばトランス差別的な発言をおこなっている人たちです。「トイレは性器で分けるべきだ」「女性アスリートの活躍の場が奪われる」という発言、たくさんありましたよね。千田さんはそうした発言に対して批判的だと理解してよいのでしょうか。「分割線の引き直し」を主張するのに、そうした夥しいトランスフォビックな発言について一言も触れていないのはとても奇妙に感じます。

 こうして、結論としては同意できそうな主張が、根拠がわからないまま主張され、またそれがこれまでに出てきたどんな「対立」に志向したものなのかも説明されないまま2節は終わります。風呂の話は「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、スポーツの話はなんとなく「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立に志向しているように読めますが、それらの対立についてこれまで説明されていないので、千田さんの主張がその対立の中にどう位置づくのか読者にはよくわからないままです。

3節「ターフ探しがもたらすもの」について

 最後の3節はもうまとめのような内容です。「ターフ」という言葉を使って攻撃する人たちは相手の「差別意識」を問題にしていて、それは啓蒙主義的でうまくいかないし、うまくいかないから苛立ちが募って暴力的になるのでよくないよ、ということが述べられています。「差別意識」が問題になっているのかという内容にも異論がありますが、それ以前に1節2節の議論がよくわからないので、この結論めいた主張が前の議論からどう導かれるのかという論理が私には読み取れませんでした。

 おわりに

 結局、この論考ではどのような「対立」をどのように解きほぐすことが試みられたのか、私にはよくわかりません(そもそも「対立」のちゃんとした紹介すらないのです)。

 ものすごく好意的に読むとすれば、次のような筋を読めなくもないかもしれません

  • トランス差別に反対する人たちと、その人たちに「ターフ」と呼ばれる人たちが対立しています。
  • 「ターフ」と呼ばれる人たちの主張にも一理あるし、彼女らもトランスへの差別意識を持っているわけではありません。
  • 時代はジェンダー論第三段階で、社会は性別二元的な仕方ではなく分割されるようになってきています。その方向で多様性を尊重しましょう。
  • そのためには「ターフ」という対立を生む言葉で人を攻撃すべきでありません。

 けれど、こうして好意的にまとめて見るとよりはっきりするのは、「ターフ」と呼ばれる人たちがどんな発言をしていて、それらがどうトランス差別的であると言われているかについての考察が、この論考にはまったく存在していないということです。

 これは、「誰がターフなのか」という「対立」が主題として設定されたことにかかわる問題だと私は思います。トイレや風呂の問題にせよスポーツの問題にせよ、トランス女性を排除する言説があって、「ターフ」という言葉はそれに対する反発として使われているものです。2節後半で提示されているトイレやスポーツに関する千田さんの主張も、そうした排除の言説を批判し、それを乗り越えるためのものとして提示されていたら、もっと違った受けとめ方のできるものになっていたかもしれません。

 けれど、この論考はトランス排除の言説から出発するのではなく、それへの反発である「ターフ」という言葉の使用を出発点にして「対立」を捉えています。その結果、トランス差別についての考察が抜け、実際にどんな「対立」があるのかは不明瞭にされたまま、「ターフ」という言葉の使用だけが批判されるというアンバランスな議論になってしまっているように思います。出発点がおかしいのです。

 私は、「ターフ」という言葉が中傷の言葉として使われることがある、ということを否定しようとは思いません。私自身はその曖昧な言葉を使おうとは思わないので、なんなら「その言葉は使わないほうがいい」という点で千田さんと同じ見解を持ってさえいるかもしれません。

 けれど、その言葉が使われてきた背景には「フェミニスト」による苛烈なトランス差別的言動があります。この1年の日本語圏のTwitterに限ってさえそうです。「トランス差別的な言動をしている」と思われるから「ターフ」と呼ばれるわけで、その是非は別にして、元々の言動がどんなものでなぜ批判されているかについて何も具体的に触れないまま、「『ターフ』という言葉をめぐる対立」が何なのかを示すこと、ましてやそれを解きほぐすことなど、できるはずがないと私は思います。

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*1:たとえば「ペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージ喚起が排除を意図したデマ」なのは、現在の話か未来の話かというよりも、性器はトランス当事者にとってこそ最もデリケートな場所であるのに「性器を他人に見せつけるように女湯に入りたがってる人がいる」というイメージで語ることにトランス女性への偏見があるからでしょう。そうした趣旨のことを多くの当事者が語っていたはずです。また「ペニスを恐れるのは理解可能だ」という理由に刑法の旧強姦罪規定を持ち出しているのもよくわかりません。「ペニスの膣への挿入」だけを特別視する刑法の性暴力観をフェミニストはずっと批判してきたのではなかったのでしょうか。この点はゆなさんが適切に指摘しているとおりだと私は思います。関連して、「男体」への意味づけの問題は私も1年前にブログに書いています。

*2:「セルフID」について読者に与えられる情報は「性自認で性別が決まる」という言葉だけなのですが、これだけ言われて問題を理解できる読者はいないと思います。法的な性別に関して言えば日本でも要件が厳しいだけで性自認にあわせて変更ができるのですが、日本も「セルフIDだ」とは千田さんは言わないでしょう。「セルフID」と言われていることについて考えるには、法的な性別の変更の要件(SRSを要求するのか、医師の診断を要求するのか、RLEを要求するのか等)が他国でどう変わってきていて、それに対して反発する人たちがどういう意味で「セルフID」という言葉を使っているのかを知る必要がありますが、「性自認で性別が決まる」とだけ言われてそうしたことがわかるはずがありません

「女性専用スペース」とトランスフォビア

はじめに

 この長い記事の目的は、現在ツイッター上で生じているトランスフォビアの問題について、若干の問題の整理を試みることで、トランスフォビックな語りの停止に多少なりとも貢献を試みることです。

 ここで「問題の整理」ということで私が意味しているのは、「トランスフォビックな語り方」がどのような思考から出てきているのか考え、またその思考を反省することは、フェミニズムの関心とも重なるとこがあるはずだという見方を呈示することです。

 この記事には二つの内容があります。

 ひとつはタリア・メイ・ベッチャーによる「トランス初級講座」という論文の紹介です。この論文の最後の「ジェンダー分離」という節は、ちょうどトイレの話から始まっていたので、資料としての意味もこめて雑な訳も載せておきました。

 もうひとつは、ベッチャーの論文の内容に絡めて、もう少し私自身の専門である社会学のほうに引き寄せつつ、トランスの問題とフェミニズムの問題の重なりについて考えるパートです。

 両方あわせるとだいぶ長くなりますが、もちろん一気に読まなくても構いません。どうかゆっくりとおつきあいいただければ幸いです。

「トランス初級講座」紹介

第1節~第6節

 まず「トランス初級講座」という文章の紹介をします。著者のタリア・メイ・ベッチャーはカリフォルニア州立大学哲学科教授で、昨年はBuzfeedの記事「私たちの生活にヒントをくれる女性哲学者たち」37人の中にも名前が挙がっていました。この文章が寄稿されているのは『セックスの哲学(第7版)』という本です。版を重ねていることから、それなりの定評があることがわかります。

 哲学の教科書なので、ベッチャーの文章も「何が哲学的に興味深いか」といった問いのもとに書かれていますが、ベッチャー自身のトランス女性としての経験から、哲学的問いと、当事者にとっての(そして私たちの社会にとっての)重要な問題とが重ねられていると考えられるでしょう。

 「トランス初級講座」ではまず1節でセクシュアリティに関する基礎用語が解説されます。「性的指向」「ジェンダー表現」「ジェンダーアイデンティティ」が取り上げられています。この中でいま重要なのは「ジェンダーアイデンティティ」ですが、それが何かという問題は後で触れられています。

 2節はトランスにかかわる述語の解説で、「トランスセクシュアル」「トランスヴェスタイト」「クロスドレッサー」「トランスジェンダー」といった言葉の意味と簡単な歴史が紹介されています。

 こうした言葉の意味とその背景を理解しておくことはむろん大事なことですが、ここで解説することはこの文章の目的から外れてしまうので、「わからない」という方はぜひ調べてみてほしいと思います。

 3節はこの文章にとって重要な部分です。「誤った性別割り当て(misgendering)」と呼ばれるトランスフォビアが取り上げられています。「誤った性別割り当て」とは、トランスの人々に対して、その人自身のジェンダーアイデンティティにあわない取扱いをすることです。例えばトランス女性を「彼」と呼んだり、「女性として生きる男性」と呼んだりすること(もちろんその逆も)などがそれにあたります。

 ベッチャーが紹介しているところによればこの「誤った性別割り当て」にはさまざまな害がともないます。こうしたふるまいは、トランスの人の自尊心を掘り崩し、疲労やストレスや怒りや恥といった心理的負担を与え、また自分が何者であるかという認識を確立することを妨げ、また制度的にもジェンダーアイデンティティと異なった扱いをされるという政治的抑圧の対象ともなってしまうと言われています。

 こうした害がともなう差別的なふるまいであるという点で、「誤った性別割り当て」には大きな問題があるということをまず強く確認しておきましょう。トランスの人々は、自身のジェンダーアイデンティティにあうよう(つまりトランス女性は女性として、トランス男性は男性として)扱われるべきです。

 その上で、ここで次のような疑問を持つ人もいるかもしれません。「トランス女性/男性は女性/男性として扱われるべだ」というときの「女性/男性」とはいったいどういう意味なのか、と。それは結局「生物学的な」ものではないのか、と。

 ベッチャーが考えようとしているのは、まさにこの「哲学的」問いです。ベッチャーは4節で、この問いに対して性別にかかわる概念の分析(性別にかかわる用語を人々がどう用いているかという言語的実践の分析)によってその問いについて考えることを勧めます。

 私たちは「女性」「男性」といった言葉を、必ずしも「生物学的な」特徴のみを基準に用いているわけではありません。「女性」「男性」という言葉は、生物学的な性別の概念と強く結びついていることは確かではあるものの、さまざまな文化的意味を含んで、文脈によって異なった意味で使われる言葉でもあります。

 またこの文章の後半でも考えるように、実のところ私たちの日常生活で常に人の性器(まして染色体)が問題になるわけではないことを考えれば、人を「女性/男性」に分類することがどんな実践なのかということは、「生物学的」なものに還元されるわけではなく、個別の文脈に照らして考えることができる問題だということになるでしょう。

 それどころか、「生物学的な」身体(たとえば外性器)がどのようなものであるかということもまた、特定の文脈における文化的な(つまり私たちの言語的実践における)意味づけの対象であることが後の7節では論じられています。このことも、この文章の後半で取り上げましょう。

 ベッチャー自身はここでは、トランス女性/男性を「何かを欠いた」女性/男性としてではなく、端的な女性/男性として扱う言語的実践が少なくとも特定のサブカルチャーの中にはあり、しかもそれは現在メインストリームにも広がりはじめているのだと主張しています。

 5節では「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問題が取り上げられています。一般的にはトランスは、「性別の自己認識」という意味でのジェンダーアイデンティティと身体との不一致と説明されることが多いですが、ジェンダーアイデンティティをこうした意味だけで考えると、多くのトランスの人がもつ自身の身体への不満をうまく捉えられないとベッチャーは言います。

 というのも、トランスの人は自分が何者であるのかを必ずしも最初からはっきり知っているわけではなくて、むしろそれを発見していく過程があるというからです。その過程には多くの場合「性別の自己認識」の変更も含まれています。しかし、たとえば自己認識を男性から女性に変更する過程があるとき、身体に対する不満はその自己認識の変更以前から持たれているものです。したがって「自己認識と身体の不一致」という表現ではその状況は捉えられなくなってしまいます。

 ベッチャーはここでジェンダーアイデンティティに関するいくつかの立場を紹介した後、「身体に対する感情投入」に注目する視点を魅力的なものとして紹介しています。私たちの身体経験には、快や不快といった感情の経験も含まれます。私たちが自分の身体に肯定的または否定的感情を持つようになるのはどのようにしてか、またその感情が、女性/男性として育てられたという環境に反する場合がある(つまりトランスの人の場合)のはどのようにしてかを考えようということです。

 ベッチャーがこうした立場を魅力的だと考えるのは、身体に対する感情的な経験には、身体に対する文化的・社会的な解釈が大きくかかわっていると考えているからです。このことも7節の最後で少し述べられています。

 こうして、「女性/男性とは何か」という問いについて、性別を分類する私たちの言語的実践に目を向けるという仕方で考えることは、「身体を解釈する言語的実践」とその実践のもとでの「身体の感情的経験」について考えることにもなることで、「ジェンダーアイデンティティとは何か」という問いにも繋がっているというわけです。
 その上で、以上のような文章の最後におかれているのが、「ジェンダー分離」と題された7節です。以下に雑な訳を掲載しておきます(6節ではジェンダーアイデンティティ性的指向の区別と複雑な関係が論じられているのですが、この文章の目的とは関連が薄いので紹介は割愛します)。

 7節「ジェンダー分離」

 「トランス初級講座」*1

タリア・メイ・ベッチャー

7節 ジェンダー分離

近年、トランス女性が女性トイレを、トランス男性が男性トイレを使用することを防ぐために、性別で分かれているトイレを出生証明書の性別で使用するよう定める法律がいくつかの州で可決されたことで、トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあった公衆トイレを使用することをめぐる論争が活発になってきている。トランスの政治的観点から言えば、こうした動きは「誤った性別割り当て」の制度化された形態だと見ることができる。つまり、トランス女性に男性トイレを使用するよう求めることで、トランス女性は制度的に男性だとみなされることになる。このことを合理的に説明する根拠はきわめて薄弱だ。たとえば、トイレの中でトランス女性が非トランス女性に対して性的暴行をおこなうという疑いについて考えてみよう。こうした主張は容易に反証可能だ。トランス女性は通常他の女性に嫌がらせをするためにではなく、用を足すためにトイレを利用するのだから。実際こうした主張は、トランス女性は本当は(女性に危害を加えたいと思う)男性なのだという考えにもとづいている。もしトランス女性が女性として認められているなら、非トランス女性を保護するための論拠は同じようにトランス女性にも適用されなくてはならないだろう。

 また、トランス女性は男性トイレを、トランス男性は女性トイレを使うよう主張する立場は、そうした法への賛同者が明らかに意図していない帰結を引き起こす。(非トランス)女性としてパスしているトランス女性を考えてみよう。もし彼女が男性トイレに入ってきたら、男性たちはどう思うだろうか。自分たちのプライバシーを心配してくれれば良い方で、最悪そのトランス女性はハラスメントや暴力にあう危険にさらされるだろう。また、(非トランス)男性としてパスしているトランス男性にについても考えてみよう。もし彼が女性トイレに入ってきたら、女性たちはどう思うだろうか。まさにトランス女性を女性トイレから排除することを動機づけてきたはずのその関心を持ったりしないだろうか。ここで見えなくされているのは、一部のトランスとジェンダー不一致の人々*2がトイレを利用するときに直面するリスクである。一方のジェンダーで一貫したパスをしていない(文脈によってパスするかどうかが変わる)トランスないしジェンダー不一致の人々は、じろじろ見られたりハラスメントを受けたりする可能性なしにトイレを利用することができない。このことが示すのは、少なくともトイレを性別で分け続けている社会においては、ジェンダーニュートラルなトイレが一刻も早く利用可能になるべきだということである。

 こうしてみると、トランスの人々が性別で分かれたトイレを使うことに関する論争はほとんど哲学的関心を惹くものではないように見える。トランスの人々が自分たちのジェンダーアイデンティティにあったトイレを使うことに反対する議論はとても貧弱に見えるからだ。しかし、性別で分かれたトイレの話は始まりに過ぎない。他の制度的なジェンダー分離(たとえば更衣室、DVシェルターやホームレスシェルター、刑務所、検身*3など)、特にその中で人が見たり見られたり触ったり触られたりすることがある制度を考えてみると、興味深い哲学的問いと洞察が浮かび上がってくる。

 具体的な例を考えよう。私は以前、ロサンゼルス警察署がトランスジェンダー個人にかかわる際の手続きと指針を策定して施行しようとするワーキンググループに参加していた。私たちは、検身の際に自分を検査する警察官の性別をトランスの人々自身が決められるよう求めていた。トランスの人々の身体はしばしば複雑で、自身の身体をさまざまな仕方で「再コード化*4して理解することもあるので、検査する警察官の性別をどうするかはトランス個人にまかせるのが一番よいというのが私たちの提案の根拠だった。

 ロサンゼルス警察署が示した懸念には、ペニスがある身体の検身をすることになる女性警察官から訴訟が起こるかもしれないというものがあった。訴訟に関する潜在的不安は道徳的関心であった。当初そうした懸念は、女性警察官がトランス女性にレイプされるというありそうもない恐れから表明されていた。この考えはもちろん、(ペニスをもった)トランス女性は「本当は男」であって女性に性的暴力を働く傾向があるかもしれないというものだ。しかしながらこれはおかしな話で、ある人がペニスをもつか否かという分割線は、個人に帰属される心理的傾向とはほとんど関係がないだろう。手術をしてもはやペニスを持っていない個人にもレイプをする傾向性は帰属できる。そうした個人は、たとえペニスがなくても、なお性的暴力をおこなう能力をもっている。身体的能力(たとえば体力)という点でいえば何も変わっていないのである。

 次に問題となったのは、プライバシーと品位にかかわる懸念であった。こうした懸念は、性別で分れた刑務所について私達が議論する際にもあらわれた。それは主として、トランス女性が(非トランス)女性のプライバシーを侵害し、さらにはわいせつな行為をするかもしれないというものだった。その結果として、検身に関する議論においても、女性警察官がペニスに触れることの害(すなわちわいせつに対する懸念)が考えられるようになった。

 このことは、身体部位が――とりわけプライバシーと品位にかかわる道徳的境界に関して――性(sex)によって異なる仕方で社会的に解釈される仕方〔たとえば「男性のペニス」が、暴力をおこなうものとして、あるいは見たり触ったりすることがわいせつであるものとして解釈されているということ〕を示している。それは、「裸であること」は社会的に構成されるという問題を想起させる。裸であることが道徳的負荷のある〔恥ずかしいとかわいせつだとか感じたりする〕現象なのは、ほとんどの社会的文脈において着衣が標準化されているという前提があるからであり、その限りにおいてそれはまごうことなき文化的現象である。こうした関心はまた、トランスの人々が自身の身体をさまざまに解釈することでそうした道徳的境界に異議を唱える仕方を際立たせてくれる。

 もしこのことが正しければ、ジェンダー分離において問題となっていることは、実のところきわめて哲学的考察に値することがら――すなわち、性(sex)によって異なる身体部位の、道徳的境界という点から見た社会的解釈――である。これはまったく些末な問題ではない。道徳的解釈は、(少なくとも人間における)男性・女性カテゴリーの区別についての私たちの理解にとても深く入り込んでいるからである。そうした道徳的境界は、トランス男性を本当は女性であると、トランス女性を本当は男性であるとカテゴリー化することを含む言語的実践を支えている。実際それらの道徳的境界は、私たちの公的なジェンダー呈示のみならず、私たちの身体に対する重大な感情投入の感覚――ジェンダー化された公的な尊厳の感覚、傷つきやすさや強さの経験、あるいは暴行や犯罪の経験をも含む感情投入――に対してもその基礎を与えているだろう。言い換えれば、おそらくこの地点〔身体部位の社会的解釈を道徳的境界という点から考えること〕は、ジェンダーアイデンティティを基礎づける何らかの感情投入に対する説明を探し始めるためのよい出発点なのである。

 トランスの問題とフェミニズムの問題

性別の分類:外見とふるまいの規範性

 上に紹介したベッチャーの文章は、どこまでその内容に同意するかは別にして、今回ツイッター上で生じているトランスフォビアについて考えるためのいろいろなヒントが詰まったものであるように思えます。特に、性別を分類する言語的実践や、身体部位に対する社会的解釈に注目することは、「誤った性別割り当て」が今回どのように生じてしまっているのかを理解しやすくさせてくれるのではないかと私は思います。

 ここではベッチャーの文章に絡めながら、そのことについて考えるとともに、そうしたトランスフォビアを回避することは、フェミニズムの課題とも重なるのではないかということを考えたいと思います。

 7節の前半で述べられているのは、「トランス女性を女性トイレに入れないようにする」法の奇妙さでした。それはトランスの人々に対するいわれのない排除であるだけでなく、法への賛同者が意図したのと逆の帰結すらもたらしうる、制度的な「誤った性別割り当て」なのだ、と。

 ツイッター上でも今回、トイレの話は話題になっていました。ベッチャーの文章を読んだ人は、「いや、そこで問題になっていたのはトランスの人のトイレ使用ではなく犯罪目的でトイレに入ろうとする男性のことではなかったか」と思うかもしれません。しかし、そのように言うとき、そこでは「男性」ということで何が意味されているのでしょうか。

 私たちはトイレですら他人の性器を見ることなどあまりありません(女性トイレならなおさらそうでしょう)。そのときある人が「男性である」というのはいったいどのようなことなのでしょう。

 ツイッター上では、この問題は「女装して入ってくる男性がいるのではないか」あるいは「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」そして「そうした人とトランス女性の区別がつかないのではないか」という問いのもとで議論されていたように思います。私はこの議論の仕方に、体系的に「誤った性別割り当て」が含まれているのではないかと思います。

 ここではまず「女装して入ってくる男性がいるのではないか」という疑問について考えましょう。この疑問には、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」という前提があるように思います。しかし、たとえば「(シスであれトランスであれ)男っぽい女性」と「女装した男性」を区別して判断する明確な基準は存在するのでしょうか。

 性別判断についてはベッチャーはあまり語っていないので、ひとつ社会学の文献を紹介します。鶴田幸恵さんの『性同一性障害エスノグラフィ』という本です。


 この本の前半は「他人の性別を見る」という社会現象がどう達成されているかが分析されています。私たちはたとえば街で見かける他人を女性か男性か判断していますが、別に性器を見てそうしているわけではありません。「見た目で判断しているのだ」と言いたくなるかもしれませんが、しかし私たちは「女性の見た目をした人」「男性の見た目をした人」を見ているのではなく、「女性を」「男性を」見ているのではないでしょうか。つまり、「他人の性別を見る」というのは実は、ジェンダー化された(つまり女/男っぽい)無数の外見やふるまいの集積から、「外見以上のものを見る実践」なのです。

 興味深いのは、そうした実践は、「外見か外見以上のものを推測すること」ではなく、まず端的に特定の性別を帰属した後で、それを地としてその上でその人の振る舞いを解釈する仕方でおこなわれているという指摘です。

 たとえばトランス男性が故郷に帰ったときに親戚からは「女性」とみなされて一生懸命「女らしい」ところを指摘されたという話が出てきます。日常的には男性としてパスして生活している人でも、性別移行前を知っている人たちは「女性」だと見て、その判断を地として、ふるまいの「女らしさ」を指摘されるという話です。また、「喫煙所で座ってタバコを吸っていたら男性だと思われた」という著者自身の話も紹介されています。

 そう考えると、ふるまいを解釈する枠組みとなる判断がどのようにおこなわれているかは、その人に対する知識や出会いの文脈に依存するものであり、いつでもどこでも誰と誰のあいだでも通用するような脱文脈的な基準を定めることは難しいということになりそうです。いったん判断した枠組みを一時停止して人の外見やふるまいを深く疑いだしたら、シスかトランスかにかかわらず、違った枠組みを採用する要素をそこに見いだすことは出来てしまうでしょう(実際この本でも、問題なくパスできていながら、自分自身は自分の顔を元の性別判断を地として見てしまうがゆえに、自分が「不完全」に思えてしまうという当事者の話が紹介されています)。

 さて、他人の性別を見るということがこのような実践であるとしたら、「女装した男性は、シス女性とは区別がつくがトランス女性とは区別がつかない」と考えてしまうことは、想像の中で人の性別をあらかじめ定めて、それを地としてその想像の中の人の外見やふるまいを見ているということなのではないでしょうか。そうだとしたら、その想像は「トランス女性」をあらかじめ「男性」として定めているのであり、その点で「誤った性別割り当て」だということになるでしょう。

 もちろん、基準が明確ではないといっても、外見やふるまいが二元化されている私たちの社会では「あいまいな外見やふるまい」がないわけではないでしょう。しかしそのこと自体はトランスかシスかにかかわらず言えることであり、にもかかわらず、「トランス女性と女装した男性の区別」のみをことさらに懸念することは、「誤った性別割り当て」とともにいわれのない懸念をトランスの人々に向けていることにならないでしょうか。

 実際には、外見やふるまいを詮索されることを恐れているのはまずもってトランスの人々であるはずです。ベッチャーが書いていたように、そのこと自体ハラスメントのリスクにもなってしまうからです。だからこそ、ジェンダーニュートラルなトイレの整備が急務だと言われているのでしょう。

 もちろん、外見やふるまいによる性別判断の文脈相対性を弱めるために、「(シスであれトランスであれ)女性/男性はいつでもどこでも女性/男性にしか見えないように特定の外見やふるまいをしなければならない」と言っていけば、なにがしかの「基準」を定める方向性を考えることもひょっとしたらできるのかもしれません。しかしそれは、フェミニズムがこれまで考えてきたこととは矛盾するでしょう。

 一方でフェミニズムは、「女性らしい」外見やふるまいの規範化(女性とはそういうものであるべきだとされること)にずっと抵抗してきました。ツイッター上で何度も繰り広げられている女性表象をめぐる議論にも、このことと深く関わるものがあるはずです。

 他方、外見やふるまいの規範によって性別判断のありようが狭く限定された社会は、トランスの人々にとっては他人からどう見られるかを強く気にかけなければならず、またその規範から外れればただちにアブノーマルな存在とされてしまう社会でもあるでしょう。

 もしそうなら、この点では、フェミニズムとトランスには共通の事情があり、それゆえ外見やふるまいの規範性の問題について考えることは、両者の問題が重なるところだと考えることができるのではないでしょうか。

 身体の意味づけ

 続いて「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問についてですが、こちらは「身体の意味づけ」という観点から考えたいと思います。

 ベッチャーの文章の後半には、「身体の社会的解釈」の話が出てきます(「解釈」という言葉は個人的にはちょっと強すぎる気がするので、ここでは「身体の意味づけ」という表現を使っておきます)。ベッチャーの警察署の話は、トランス女性のペニスが当初女性警察官に性的暴行を加えるかもしれないものと意味づけられ、次いで女性警察官がわいせつなことをさせられる対象とされる可能性が出てきたというものでした。

 ここには、性器あるいは身体の意味づけという興味深い問題があります。ツイッター上ではしばしば「女体持ち」「男体への恐怖」といった表現で、フェミニズムの主体や性暴力への恐怖が語られることがありますが、ベッチャーの話は「身体性」を語るこうした言葉についても考えるヒントをくれるように思います。

 「男体」という表現について考えてみましょう。2-1で述べたように、日常生活で私たちが他人の身体、ましてや性器を直接見ることは多くありません。にもかかわらず「女体」「男体」という表現で性別が指示されるとき、そこでは身体に対する一定の意味づけがおこなわれているように思います。たとえば恐怖の対象として語られる「男体」は、身体それ自体を指しているよりは、一定の象徴的な――「侵襲の主体」のような――意味づけをされた身体なのではないでしょうか。

 たとえばベッチャーが挙げていた「検身」をめぐるロス警察の当初の懸念(「女性警察官がレイプされるかもしれない」)は、この「侵襲の主体としての男体(ペニス)」という意味づけが「トランス女性のペニス」へと投影されることで生じていたものだと考えることできるでしょう。

 「女性だとウソの自己申告をして入ってくる男性がいるのではないか」という疑問もまた、同様の投影を含んでいるように思います。実際には、男性に見える人が女性専用スペースに入ることで生じうる混乱を、多くのトランスの人々は(むしろトランスの人々こそ)望んでいないでしょう。にもかかわらず、「自己申告だけで女性専用スペースに入るトランス女性」と「ウソの自己申告をして入ってくる男性」との区別をことさらに心配することは、やはり想像の中でトランス女性の身体に「侵襲の主体としての男性身体」という意味づけを投影することから出てきているのではないかと思えるからです。だとしたらここにはやはり、「誤った性別割り当て」の問題があるように思います。

 念のため述べておけば、私は「男体への恐怖」の語りが常に悪いとまで思っているわけではありません。女性のほうが性暴力のリスクに晒され実際に被害にあっている差別的状況のもとでは、性暴力への恐れが「男性の」身体へと向かうことはむしろよくわかる気がしています。

 ただ、男性身体(とりわけペニス)へのそうした意味づけは、それをいつでもどこでもあてはまるものとして一般化してしまうなら、容易にトランス女性の身体にまで拡張され、現実的ではないトランスフォビックな懸念として表明されてしまうことになるでしょう。

 このように考えるなら、「女性専用スペースにおける性暴力」の問題を、トランス女性による利用と関連づけて考えることが、なぜトランスフォビアを含んでしまうのかわかるのではないでしょうか。そこにはトランス女性やその身体を、「男性」と想定したり意味づけたりすることが含まれてしまっているのです。性暴力の問題は、トランスの問題とは独立に考えられなくてはならなりません。

 さて、私は「身体の意味づけ」の問題も、やはりフェミニズムにとって重要な関心事であったはずだと思います。「男体」への意味づけは、性暴力への恐れを表明するフェミニストのみがもっぱらおこなっていることではありません。それどころかむしろ、それは挿入中心主義的なセックス観や、性暴力すら相手に快楽を与えて支配する手段として描かれる男性向けポルノなど、さまざまなところで少しずつ違った仕方で広範におこなわれていて、それらはまさにフェミニズムが批判してきたものです。

 同じ事は「女体」についても言えるように思います。「女体」への規範的な意味づけは、フェミニズムにとって重要な批判対象でした。

 まず、「妊娠・出産をする身体」は公的領域においてマイナスの意味づけをされてきました。「生理があって感情的」「出産で休むから労働力として劣る」等々。実際には公的領域は私的領域における女性の家事労働がなければ成立しないものであるにもかかわらず。

 またポルノグラフィやセックスをめぐる議論も典型的です。ちょうど「ペニス」が「侵襲の主体」として意味づけられることの裏返しのように、「胸」や「尻」に還元された「女体」が「欲望の客体」として意味づけられることをフェミニズムは批判してきました。「女性は挿入によってこそ快楽を得る」というような考え方についても同様です*5

 他方で、そのようにして「女体」が意味づけられ貶められているからこそ、フェミニズムにとって女性の身体を意味づけなおすことこそ連帯と政治のよりどころだと考えられることもありました。妊娠・出産・育児こそ女性の価値であり保護すべきだと考えた母性主義フェミニズムや、妊娠・出産する女性の身体に「自然性」という価値を見いだすエコロジカルフェミニズムなどはその代表的な例です。

 しかし、たとえば健康で妊娠・出産する身体を女性の本質と考え、そこに価値があると意味づけてしまえば、妊娠・出産しない/できない身体をもった女性や、障害をもった女性の身体は劣ったものとして意味づけられてしまうことになります。それゆえ、女性の身体になにがしかの本質を見いだしてそこに価値を意味づけるようなタイプのフェミニズムは、今日では批判の対象となることが多いと言ってよいでしょう。

 こうして、「男体」についても「女体」についても、フェミニズムはその意味づけに部分的には関わる要素をもちつつ、それを全面化して規範化することには批判的であるような態度を(全体としてみれば)取ってきたように思います。そしてそうであるなら、ここにはベッチャーが言っていたような、身体部位のさまざまな再コード化をおこなうトランスの問題と重なるところがあるのではないでしょうか。つまり、身体への意味づけを多様化していくことは、フェミニズムの関心事でもありトランスの関心事でもあることができるのではないでしょうか。

おわりに

 以上、ベッチャーの議論に絡めながら、外見やふるまいの規範性、そして身体への意味づけの規範性が、フェミニズムとトランス双方の問題とかかわるのではないかということを考えてみました。こうした規範性の問題は、ツイッター上でも「フェミニスト」がたくさん議論してきたことだと思います。それらの問題がトランスの問題とも重なっているところがあるとすれば、トランスフォビックな語り方をやめるということは、フェミニズムの問題に対する思考を一時停止することではなくて、むしろそれを先に進めることでもあるはずではないかと、私は思うのです。

*1:ettcher, Talia Mae (2017) “Trans 101,” in Halwani, R. et al. eds., The Philosophy of Sex: Contemporary Readings (7th edition), Rowman & Limited.

*2:自身のジェンダー表現と社会的に期待されるそれとが一致しない人々。「ジェンダー表現」とは、ベッチャーの解説では「男性的もしくは女性的とされる感じ方、考え方、話し方、振る舞い方、自己表現の仕方」のこと。

*3:裸にした上で口や中や肛門、ヴァギナの中まで調べることもある所持品検査

*4:身体部位の意味づけをしなおすこと。たとえばトランス女性のペニスを「トランス・クリトリス」と呼んだりするような例が紹介されている。

*5:ツイッター上でも、たとえば「痛いだけ(どころか傷害にさえなっている)女性器への愛撫」を「気持ちよいはず」と思っている男性への女性たちの怒りがたくさん目に入ります。この「気持ちよいはず」という考えには、女性身体への一定の意味づけがあるでしょう。

フェミニズムが「男並み平等」を求めるものでなくなった理由

はじめに

 先日、広辞苑の「フェミニズム」の項目が新しくなったというニュースがありました。以前は「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想。女権拡張論」という説明だったのが、最新の第7版では「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想。女権拡張論。」という説明になったそうです。「男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする」が「性差別からの解放と両性の平等とを目指す」に変わっています。「平等」という文言が入ったのは、明日少女隊というグループの活動の成果であり、敬意を表したいと思います。
 けれど個人的には、「平等」という言葉が入ることでフェミニズムのイメージが変わるかというと、必ずしもそんなことないのではないかという気もしています。確かに「女権拡張」などは悪いイメージを持たれやすい言葉かもしれませんが、それは結局「女権拡張」という表現が何を意味しているのかについて共通の了解がないということでしょう。そしてそのことは、実は「平等」という表現についても同じようにあてはまります*1。いったい「平等」ということで私たちは具体的にどんな状態をイメージしたらよいのか、このこと自体、フェミニズムにとっては難しい問いであり続けてきたし、今でもそうだと思うのです。
 この点、フェミニズムはさまざまに展開している思想なので、「平等とはどういうことか」について、フェミニズムを代表するようなひとつの説明があるようには思えません。けれど、「平等とはどういうことではないか」については、おおむね「合意事項」といってよさそうなことがあります。それは、フェミニズムは「男並み平等」を求めるものではない、という考えです。ここでは、この考えがどのように出てきた、どういうものなのかについて簡単に説明することで、「平等」とは何かという問題が今でも解決済みではなく、私たちが考えるべき課題であり続けているということを述べてみたいと思います。
 なお、字が小さくなっている次の節は、なんでこんなことを書こうと思ったかというローカルなコンテクストなので、twitterでのやりとりを見ていた方以外は飛ばしてくださって構いません。直接次々節の「平等か差異か」に進んでください。

「人権を求めるのに性別は関係ない」?

ネットに溢れるフェミニズム批判をウォッチするという不健全な趣味を持っていると色々なフェミニズム批判を目にするのですが、つい最近、「フェミニズムというのは他称なので、フェミニストを自称する人は皆間違っている」という主張を見かけました。

https://togetter.com/li/1194426
https://togetter.com/li/1195391
https://togetter.com/li/1196176

 正直何を言っているのかよくわからないところも多いのですが、どうやら「フェミニズムの起源はフランス革命後に女性に権利が与えられなかったことに憤った人たちの思想・運動であり、それは性別にかかわりない人権を求める思想・運動なのだから、「フェミ」ニズムを自称して「女性の」権利を求めるなどというのは起源の精神を踏みにじっている」という主張のようです。

 この主張自体がおかしなことは比較的明白です。仮に(学術的な細かな議論はさしあたり無視して)フェミニズムの起源を「性別にかかわりなく人権を求める思想・運動」だとまとめるとしましょう。そして、そこから200年さまざまに展開したフェミニズム思想が、起源とは違ったものになっているとしましょう。しかしこれらのことを認めても、そこから「起源の思想のほうが正しい」という主張は導けません。カレーライスの起源がインドの煮込み料理にあるからといって、「インド料理のレシピに従っていないのに「カレー」ライスを自称するのは間違いだ」という人がいたら私たちは偏屈な人だなと思うのではないでしょうか。カレーライスはカレーライスという料理として私たちの食文化に根付いており、そこで重要なのは私たちが日々レシピを工夫しながらそれを美味しく楽しんでいるという事実だからです。「起源に帰れ」ということに意味があるとしたら、元のレシピから逸脱することで味が不味くなったり、食文化が貧困になってしまっているような問題がある場合でしょう。同様に、仮に現代のフェミニズムが「起源」とは異なるものになっていたとしても、そのことはそれ自体で問題があると言えることではありません。だから「起源に帰れ」というのであれば、起源から逸れることでどんな問題が生じているのかを、現在の私たちが生きる人権文化に照らして具体的に語ることができなければならないのです(が、上の「自称フェミニズム批判」では「自称」への非難以外には具体的なことが何も語られません)。

 さて、「フェミニズムは自称するものではない」のようなおかしな主張はさておき、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言われると、ひょっとすると「そうかも?」と思う人がいるかもしれません。特にフェミニズムはその歴史の中で、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティの運動からの批判を受けてきたところもあるので、そうした歴史を知っている真面目な人ほど「女性の問題を中心に考えるのは視野が狭いのでは」と不安になってしまうかもしれません。
 この短い文章の目的は、「別にそんなことないよ」ということ、すなわちフェミニズムにとって性別が関係なくなることはないし、それにはもっともな理由があるし、そしてそのことは他のさまざまなマイノリティ問題との関係を考える上でも重要だと思うよ、ということを、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」ということの意味から考えておくことです。

平等か差異か

 一般的に、フェミニズムは第一波フェミニズムと第二波フェミニズムに分けられます。「第三波」のようなそれ以降の区分も最近は用いられることがありますが、分類の基準が少し違うのでここでは置いておきます。
 第一波フェミニズムは、大まかにいえば19世紀後半から起こった女性参政権獲得運動を指します。アメリカでは1869年にエリザベス・スタントンらが全国女性参政権協会という組織を作りました。イギリスでは1897年にミリセント・フォーセットらが女性参政権協会全国連合を、1903年にエメリン・パンクハーストらが女性社会政治連合を組織しています。後者は最近の映画「サフラジェット(邦題:未来を花束にして)」

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で描かれていましたね。
 それに対して第二波フェミズムというのは、1960年代中頃から起こったさまざまな女性解放運動の総称です。リベラル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムなど思想的特徴によっていくつかに区別され、主張の中身も第一波のようにおおまかにひとつにまとめることができない多様性を持っています。
 さて、「フェミニズムは男並み平等を求めるものではない」という考えは、第二波以降のフェミニズム(特にラディカル・フェミニズムマルクス主義フェミニズム)の中で登場します。この主張は、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムの困難を指摘するものなので、「男並み平等」を求めるようなフェミニズムがどのようなもので、そこにどんな困難があるのかを考えてみると、その主張の意味がわかりやすくなるでしょう。

「リベラルな」フェミニズム

 「男並み平等」を求めるというのは、要するに「男だけが持っているものを女にも渡すことで女を男と対等な位置に置け」と要求することです。そして「男並み平等」を求めるフェミニズムということで想定されているのは、第一波フェミニズムと、第二波フェミニズムの中のリベラル・フェミニズムです。女性参政権獲得運動が「男性が持っている権利を女性にも」という運動だというのはわかりやすいと思います。ではリベラル・フェミニズムはどうでしょうか。
 リベラル・フェミニズムのはしりは、専業主婦として夫と子どもの世話をする一見「幸せ」な家庭生活の中で、「女らしさ」に閉じ込められていた白人中産階級の主婦の憂鬱を描いてベストセラーとなったベティ・フリーダンの『フェミニン・ミスティーク(邦題:新しい女性の創造)』です。

新しい女性の創造

新しい女性の創造

フリーダンは1966年にできた全米女性機構(NOW)という組織の初代代表となります。NOWはまたたくまに会員を増やし、女性を家庭から解放し、政治・雇用・教育といった公的領域における平等な権利を求める運動をおこなっていきました。
 こうしたリベラル・フェミニズムの運動は、基本的には、政治や経済という公的領域に女性も対等に参加できるように、というものでした。その意味で、それまで男性が持っていた「公的領域において平等に扱われる権利」を女性にも与え、それによって女性も公的領域で男性がそうであるのと同じように活躍できることを求める、という「男並み平等」を求める思想・運動だったと考えられます*2

「等しきものは等しく」?

 では、こうした考え方はどこに問題があるのでしょうか。このことは「そもそも公的領域における平等(女性参政権や雇用の平等)をどんな理由で要求することができるか」について、ちょっと真面目に考えてみるとわかります。ここで「理由なんて『同じ人間だから』で十分でしょう」と思った方、ちょっと考えが甘いです。「平等」というのは簡単に言えば「等しいものは等しく扱いましょう」という考えなので、等しくないものに差をつけることは必ずしも不平等にはなりません。試験の点数が60点の学生が合格になるのに50点の学生が不合格になることや、時給1000円のアルバイトで8時間働いた人が8000円もらえるのに5時間働いた人が5000円しかもらえないのは「不平等」だとは言われませんよね。それは、差をつけるかどうかという点で考慮すべき対象が「等しくない」からです。
 では「参政権」はどうでしょうか。今の私たちが「性別関係なく参政権があるのが平等」だと思うのは、「政治に携わる」という観点から見て男女に差が無いという考えをもっているからです。けれど、女性に参政権がなかった時代、多くの人はそう考えていませんでした。「女性の本分は家庭での家事育児にある」「女性は本来慎み深い存在なので政治には向かない」、そう言われていました。だから、女性に参政権がないことは、等しくないものに差をつけることであり、不平等だとは考えられなかったのです。この状況で「女性にも参政権を」というのはとても大変です。だから第一波フェミニズムの中では、参政権や教育の権利を求めるのに「女性のもつ母性こそが政治には必要」「良き母となるために女性には教育が必要」という言い方もしばしばされたのでした。
 同様の問題は、リベラル・フェミニズムが求めた「雇用の平等」にもつきまといます。「女性も男性と同じように働く権利がある」といえるためには「働くという観点から見て男女には差が無い」という考えが必要です。けれど、多くの女性には妊娠・出産というライフイベントがあるのは事実です。だから少なくともその点に限れば、文字どおりの意味で「男性と同じように働く」ことは、多くの女性にはできません。そうすると「女性は妊娠・出産で休業したり離職したりするから雇用しない」「休業保険から妊娠による休業は外す」といったことを「不平等だ」と言うことが難しくなってしまいます(ちなみに今でも「女性は出産するので完全な平等は無理だと思う」というコメントを書いてくる学生、たくさんいます。たいてい男子学生です)。

「男並み平等」から「公私二元論の批判」へ

 ここでフェミニズムは難しい立場に立たされます。平等を要求するには「差が無い」と言わなければなりませんが、結局のところ男女に身体の違いがあるのは事実です。けれど「違いがある」と認めれば「差をつける」ことも認めざるを得ないように思われます。いったいどうしたらよいのでしょうか。
 フェミニズムの中ではこれは「平等か差異か」問題と呼ばれました。あくまで「男女に差は無い、あっても大きなものではない」と主張することで「平等」を求めるべきなのか(平等派)、逆に差があることを認めた上で、ちょうど第一波フェミニズムの中にあったように「男性と女性にはそれぞれ違う役割があって、その役割を果たすためにこそ平等が必要なんです」と言うべきなのか(差異派)。これを読んでいるみなさんはどのように考えるでしょうか。
 さて、ここでようやく「フェミニズムは『男並み平等』を求めるのではない」という考えについてです。実はこの考えが示しているのは、一言でまとめれば、「平等か差異か」という問いの前提自体を批判していく、という方向性です。「公的領域に女性も参加する権利を持つことが平等」という発想でいる限り、どこかで「でもやっぱり男性と女性は違うのでは」という「平等か差異か」問題にぶつかります。けれど、そんな問題を産みだしてしまうような「平等」についての考え方が、そもそもおかしいのではないか*3。「平等」についての考え方に歪みがあるのではないか。そう考えて、「男並み平等」の発想を批判していった議論の代表格が、第二波フェミニズムの「公私二元論」批判でした。

公私二元論の批判

 「公私二元論」とは、フェミニズムの議論の文脈では、「公的領域(政治・経済)/私的領域(家庭)」という区別のもとで、公的領域での平等を重視する考え方のことを指します。「男並み平等」はまさにそういう考え方で、「平等か差異か」の問題はそこから生まれてくるものでした。それに対して「公私二元論」批判の基本的な考え方は次のようなものです。そもそも「公的領域/私的領域」という区別は、前者を男性に、後者を女性に割り振るような考え方のもとで成立している。だから、その割り振り方をそのままにしておいて、「男性」基準でできあがっている「公的領域」に女性を参加させ、そこで「男性と差が無い」ことを証明せよと女性に求めるという「平等」の問題設定自体が、そもそもおかしいのではないか。

マルクス主義フェミニズムと家事労働論

 具体的問題にもとづいて考えるのがよいでしょう。たとえばマルクス主義フェミニズムが問題にしたのは「家事労働」でした。マルクス主義フェミニズムというのは、名前のとおりマルクス主義の立場から、女性の抑圧の物質的(モノの生産にかかわる)基盤を理論化しようとした思想です。日本でもっとも有名であろうフェミニスト上野千鶴子さんも、元々はマルクス主義フェミニズムの理論家ですね。

 「労働」といって多くの人が思い浮かべるのは、モノを作って売ったり、あるいは誰かに雇われて働いて賃金をもらったりすることでしょう。では、女性が家庭でやっている「家事」は果たして「労働」なのでしょうか。マルクス主義フェミニズムは「労働だ」と主張しました。それは直接売るモノを作ったり、誰かに雇われておこなっていることではないけれど、売るモノを作ったり企業につとめたりする男性労働者たちの日々の生活(食事や身の周りの世話)を支え、次世代の労働力(子ども)を育てているという点において、「労働力を作り出す労働」なのだと。マリアローザ・ダラコスタというイタリアのマルクス主義フェミニストは、『家事労働に賃金を』とまで主張しました。
家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

家事労働に賃金を―フェミニズムの新たな展望

 実際に賃金を支払うべきかどうかはともあれ、「家事は労働だ」というこの考えの重要性は、「男性労働者が外で働く」ことが、実は家庭で女性がやっていることに依存して成立しているものであることを示した点にあります。ご飯を作って栄養摂取をしたり、掃除をして住環境を快適に保ったり、洗濯して清潔な衣服を用意したりする活動なしには、「朝起きて働きに行って場合によっては遅くまで働いて帰ってきてまた次の日働きに行く」ことを(少なくとも健康的な形で)続けることは難しいでしょう。次世代の育成が「家事労働」なしに不可能なのは言うまでもありません。
 さて、男性の労働が女性の家庭での「労働」に依存して成立しているとするならば、「女性も男性と同じように働けるように雇用の平等を求める」ことが、それだけではうまくいかないことはあきらかではないでしょうか。だって、女性が男性と同じように賃金労働をできるようになったとして、そこでは賃金労働を成立させるのに必要な「家事労働」は誰がするのでしょうか。「家事育児は女がやること」とされている社会では、当然女性がやるのです。そうすると女性は、賃金労働と家事労働という二重の労働を背負うことになり、結局賃金労働の領域では不利な立場に置かれたままになってしまいます*4。この問題をどうにかしようと思うなら、単なる「雇用の平等」ではなく、「女性が家事労働をやっているがゆえに成立する男性の働き方を前提とした雇用のあり方」自体を変えていかなくてはなりません。そのためには、「男は仕事、女は家事育児」という性別分業規範を変えていかなければなりません。要するに、「公私」の線引きのありかたが変わらなければならないのです。

ラディカル・フェミニズムと性支配論

 「公的領域における平等」という問題設定の歪みをあきらかにしたのが家事労働論だとすれば、その問題設定では「私的領域がすでに不平等であることが見落とされる」という方向性で公私二元論批判を展開したのがラディカル・フェミニズムの性支配論でした。ラディカル・フェミニズムというのは、NOWよりも少しあとで、公民権運動やベトナム反戦運動などに参加していた女性たちが左翼運動の中の性差別に抗議する中で起こした運動です。思想的には女性の抑圧の原因を男性と女性の関係のありかたそのものに求めた点に特徴があります。比較的小規模ないくつもの団体がそれぞれ活動をおこない、話し合いを通じて女性たち自身も身につけている支配的な性別規範を脱して新たなアイデンティティと人間関係を確立しようとする「コンシャスネス・レイジング(意識変革・意識高揚)」運動などがおこなわれました。「家父長制」という、フェミニズム理論にとって重要な概念もラディカル・フェミニズムの中で生まれたもので、ケイト・ミレットが『性の政治学』の中で、支配的な男女関係のありかたにつけた名前です。

性の政治学

性の政治学

ラディカル・フェミニズムは男女関係の中に支配関係があると考えるので、しばしば男女の差異を極大化する「差異派」の主張に引っ張られることもありましたが、「私的な」関係の中の不平等を訴える視点は、DV、セクハラ、性暴力などの問題の告発をとおして、公私二元論への鋭い批判を産み出していきました。
 女性の抑圧の根本が支配的な男女関係にあると考えると、一般にプライベートなものだとみなされる男女間の性関係はきわめて「政治的」な問題を含むものに見えてきます。たとえばDVについて考えてみましょう。DVは家庭という私的領域で、夫婦関係という人間関係の中で起こります。ところが、近代法の伝統的な枠組みでは、私的領域は各人の「自由な」領域であり、法が立ち入るべきではない領域だと考えられていました。特に家庭については「法は家庭に入らず」という格言もあるくらいです。そうすると、たくさんの女性が夫から殴られていても、「法はプライバシーには介入しないよ」と、ほうっておかれることになってしまいます。女性のほうが暴力の被害と危険にさらされているという「不平等」は、「公的領域における平等」という問題設定では捉えられないどころか、「私的領域は各人の自由な領域だから」ということで積極的に放置されすらされてしまうのです(たとえばキャサリン・マッキノンは『フェミニズム・アンモディファイド(邦題:フェミニズム表現の自由)』の中で、中絶、レイプ、DVの問題に触れながら「プライバシーの権利」がいかに不平等を覆い隠すかについて論じています)。
フェミニズムと表現の自由

フェミニズムと表現の自由

「個人的なことは政治的である」というラディカル・フェミニズムの有名なスローガンは、このように、何が公的な問題で何がそうではないのかという線引きのうちに「女性の問題」を軽視する視点が含まれているのだということを訴えるものでした。
 こうした問題をどうにかしようと思うならは、やはり「公私」の線引き自体が見直されなければなりません。DV被害者を救うためには、法を家庭という私的領域に介入させなければならず、そのためには女性が被っている被害がもはや「プライベートな問題」ではないことを認めさせなければならず、そのためには結局「夫婦関係」についての社会の考え方を変えることが必要になるのです。

「男並み」ではない「平等」に向けて

 こうして、「公的領域における平等」を求めるのでは、一方で公的領域自体が男性に有利なように作られていることを見逃し、他方で私的領域において生じている不平等を見逃してしまうという点において、結局のところ「平等」を達成することはできそうもありません。似たようなことは、実はセクハラ、性暴力、中絶の権利、育児や介護などのケア労働、ポルノグラフィ、性労働など、さまざまな問題について考えることができ、実際第二波以降のフェミニズムでは中心的なトピックとなっていきました*5
 では、「男並み平等」を求めるのでないとしたら、フェミニズムが求める「平等」は具体的にはどのようなものなのでしょうか。最初に述べたとおり、これはとても難しい問題で、教科書的に解説できるような答えはありません。ただ、歴史から私たちが確実に学ぶことができることが二つあります。ひとつは、「男性と同じように女性も政治や経済に参加する」「プライベートな関係では自由を尊重する」といったイメージには危うさがあり、私たちはもう単純にそのイメージには頼れないということ。そしてもう一つは、その危うさに敏感になるためには、「すべての人に人権を」というようなお題目で満足するのではなく、むしろ「すべての人に人権を」をというときにこそ、そこに偏った前提がないかを偏った前提によって不利な立場に置かれる人の視点で考えること、そうした人たちの言葉には特に耳を傾けるべき理由があると知っておくことが必要だということです。

「固有の経験」の重要さ

 このことは、フェミニズムの中にある偏りや、他のマイノリティ問題との関係を考える上でも重要な意味を持ちます。「雇用の平等を」と言えるのは白人中産階級の専門職の女性で、そこには低賃金で(しばしば白人女性の労働市場参加を支えるハウスメイドとして)働く非白人女性の視点はありませんでした。同様に「男女の性関係に不平等がある」と言うときの視点は、あくまで異性愛の女性のものでした。要するに、非白人フェミニストやセクシュアル・マイノリティ運動からの批判は、フェミニズムが「平等」を語るとき、その前提に偏りがあるのではないかという問いを突きつけるものだったのです。
 だから、「平等」について真面目に語ろうとするなら、重要なのは「特定の(とりわけ歴史的に抑圧されてきた)属性を持つ立場の人の経験」に十分に敏感であろうとすることで、簡単に「すべての人にとって…」と語ることは逆に危険です。実際、第二波の後のフェミニズムが思想的に取り組んでいるのは、人種、階級、セクシュアリティ、文化、宗教などの観点からの女性の多様性に配慮しつつ、同時に「女性の問題」を語ることだと言えるでしょう。もちろん性や人種や階級やセクシュアリティが同じでも、皆が同じ経験を持つわけではありません。けれどだからといってそうした属性について考えるのをやめてしまえば、現在の「平等」についての考え方のどこに偏りがあるのかを考える手掛かりは失われてしまいます。だから、「平等」ってどういうことだろうと考えるのは、「特定の人にとって」と「すべてのひとにとって」のあいだを、いったりきたりしながら考えることなのです。

制度的浸透

 他方、現在では制度的にも、DVへの介入、セクシュアル・ハラスメントの禁止、強姦法の改正、ワーク・ライフ・バランス、(女性の労働参加と男性の家事育児参加のための)ポジティブ・アクションなど、単なる「公的領域における差別の禁止」を超えた、さまざまな政策が現実におこなわれるようになっています。
 もちろん、政策の水準では、既存の法的な枠組みとの一貫性は鋭く問題になります。たとえば女性の政治・経済参加を促すためのポジティブ・アクションをおこなうには、どのような取り組みなら男性に対する差別にならないかを考えなければなりません。DVの被害を防ぐために加害者が住居に近づくことを禁止することは、加害者の財産権と衝突します。性暴力裁判において女性が二次被害にあわないよう証拠に制限をかけることは、被告人が公正な裁判を受ける権利と衝突するかもしれません。また、ポルノグラフィと性表現規制の問題は、比較的既存の枠組みとの調整がまだあまりうまくいっていないトピックでしょう。
 それでも、そうした政策がまったくなかった時代に戻ることはもはや考えられない以上、私たちはすでに第二波フェミニズムの問題提起がかなりの程度まで「常識」となった社会を生きており、その中で「平等」ってどういうことだろう、と考え続けているのです*6

おわりに

 さて、ここまでくれば、「平等である」こと(同様に「自由である」「人権が守られている」といったこと)というのがどういうことなのか、実のところまったく解決済みの問題ではないということがわかるのではないでしょうか。私たちはまだ当分のあいだ(あるいは今後もずっと)、自由や平等といった概念を頼りにしつつも、同時にいま自由や平等だと考えられていることの中にある偏りを指摘しながら、自由や平等がどういうものか自体を更新する作業をしていかざるをえないでしょう。そしてそのためには、性別はもちろん、人種、階級、エスニシティセクシュアリティといったさまざまな属性に「関係のある」問題をこそ、考えなければならないのです。

ブックガイド

 フェミニズムのおおまかな歴史や分類について知りたい、という人にはさしあたり以下を。

フェミニズム (ワードマップ)

フェミニズム (ワードマップ)

争点・フェミニズム

争点・フェミニズム

アメリカの第二波フェミニズム―一九六〇年代から現在まで

アメリカの第二波フェミニズム―一九六〇年代から現在まで

 ここでは日本独自の事情については触れられませんでしたが、日本における第二波フェミニズムはなんといっても1970年代のウーマンリブです。その後、85年に均等法、99年に男女共同参画社会基本法、2001年にDV防止法ができています。ただ、こうした流れと日本におけるフェミニズム運動の関係をどう捉えるべきかについてはまた別の議論が必要でしょう。
リブとフェミニズム (新編 日本のフェミニズム 1)

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均等法をつくる

均等法をつくる

女性たちが変えたDV法―国会が「当事者」に門を開いた365日

女性たちが変えたDV法―国会が「当事者」に門を開いた365日

ネットで読めるものには牟田さんの論文もありますね。
牟田和恵,2006,「フェミニズムの歴史からみる社会運動の可能性」『社会学評論』57(2).

 概説じゃなくてフェミニズム思想書・理論書を読んでみたい!でも大変そうだから読みたくない!という人にはこれがおすすめです。1冊で50冊も読んだ気になれます。

フェミニズムの名著50

フェミニズムの名著50

*1:たとえば、「男女平等」という表現が日本社会でいかに受け入れられづらいものかは、「雇用平等法」が「雇用機会均等法」になったことや、英語だとgender equality lawすなわち「男女平等法」という名前の法律が日本語だと「男女共同参画社会基本法」という複雑な名前で呼ばれていることなどからも察することができるでしょう。

*2:もちろん実際には、第一波フェミニズムの思想もリベラル・フェミニズムの思想もさまざまな要素を含んでおり、あとで見るようなマルクス主義フェミニズムやラディカル・フェミニズムと通底するような考え方も見られます。その意味ではフェミニズムは最初から「男並み平等」を求める思想ではなかったとも言えるかもしれません。また、リベラル・フェミニズムについても、80年代以降はジョン・ロールズ以降のいわゆる平等主義的なリベラリズムの視点を取り入れることで、第二波フェミニズムの問題提起を包摂する理論が模索されています。ですから、ここでの区別はあくまで便宜的なものだと考えておいてください。

*3:「平等か差異か」という問いへの批判として日本で有名な論文に、江原由美子「性別カテゴリーと平等要求」があります。『フェミニズムと権力作用』という本に入っています。

フェミニズムと権力作用

フェミニズムと権力作用

*4:これは「仕事と子育ての両立」を進めようとしてきた日本が、ずっと抱えてきた問題でもありました。萩原久美子さんの『迷走する両立視点』は、男性基準の働き方のもとで「仕事も家庭も」と女性が求められることの苦しさと理不尽さを、生々しく伝えています。

迷走する両立支援―いま、子どもをもって働くということ

迷走する両立支援―いま、子どもをもって働くということ

*5:たとえばセクハラは、男性労働者がデフォルトの職場では女性労働者の役割は男性を楽しませる「華」として地位も賃金も低いものとなり、その上下関係のもとで生じる性的侵害が「個人的な恋愛のトラブル」だとされてしまうという、複合的な問題として見えてくるでしょう

セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン

セクシャル・ハラスメント・オブ・ワーキング・ウィメン

*6:DVやセクハラ、性暴力については最近は男性の被害者の問題も認識されるようになってきています。だから「セクハラやDVは人権問題だし、フェミニズムとか関係ない」と言いたくなる人もいるかもしれません。けれど、いまの私たちが「セクハラやDVは人権問題だ」と思えるのは、疑いなく、「私的な問題」とされていた事柄のなかに公的な問題があるということを訴えたフェミニズム運動の成果の上でのことです。だから、「人権を求めるのに性別は関係ない」と言ってフェミニズムを批判するのは、自分がフェミニズムの成果にタダ乗りしていることに気づかない滑稽なふるまいなのです。

日本における「同一価値労働同一賃金」問題

終わりにすると言いながら書いていますが。

同一価値労働同一賃金」という言葉があります。文字通り、同じ価値をもつ労働には、同じだけの賃金を払わなくてはいけませんよー、という原則のことです。国際的にはILO100号条約に規定されており、日本も1967年に批准しています。

けれど、日本では法律に同一価値労働同一賃金についての明文的な規定がありません。そのため、コース別人事や、正規/非正規の区別といった雇用管理区分で賃金を変えられ、実質的には同じ価値の労働をおこなっているにも関わらず、大きく賃金が異なるという問題がしばしば指摘され、訴訟にもなってきました。特に、均等法ができたときに多くの企業が導入したコース別人事が実質的な男女別賃金の温床となっているというのはよく言われることです(04年の日本労働弁護団の見解)。09年時点でも、国連女性撤廃委員会からは、雇用管理区分が女性差別の抜け穴となっており、同一価値労働同一賃金の原則が国内法規に欠けていることの問題性が指摘されています

要するに、コース別人事や、正規/非正規の区別といった雇用管理区分のせいで同一価値労働同一賃金原則がちゃんと守られておらず、それが男女別賃金や若年男性の非正規雇用拡大にともなう貧困問題を生じさせているというのは、この問題が議論されるときには割と一般的に言われることなのです。専門でない私がよく耳にするくらいですから。

ところが、「コースが違えば労働の価値が違うのが普通だから、同一価値労働同一賃金の問題はないよね」と仰る方がいらっしゃいました。

コース別採用をしている場合、異なるコースでは同一価値労働をしていないのが通常。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/130781207838470145

それはさすがにないわー、と思いましたので、このエントリではコース別人事のような雇用管理が同一価値労働同一賃金の原則に抵触する、いくつかの事例をご紹介しましょう。なお、この問題については、森ます美さんという研究者が集中的に研究をおこなっていて有名ですので、以下紹介するのは、彼女の研究で挙げられている事例です。なので詳しい説明については、森さんの著作をごらんになってください。

日本の性差別賃金―同一価値労働同一賃金原則の可能性

日本の性差別賃金―同一価値労働同一賃金原則の可能性


商社「兼松」の事案

兼松は均等法を契機に、「一般職/事務職」というコース制を導入しました。当初は女性を事務職に、男性を一般職に、一律に配置していましたが、後にコース転換制度を設けています。そして、このコースによって、賃金体系が大きく異なっていました。


(森 2005: 78)

これが実質的な男女別賃金体系であるとして裁判でその正当性が争われ、2008年1月31日、東京高裁はその性差別性を一部認める判決を出しました(参考解説。判決文PDFはこちら)。

この判決が重要なのは、実際にはコース間で職務内容や困難度に同質性があるにもかかわらず、賃金に格差があることの問題性を指摘していること、すなわち同一価値労働同一賃金という観点からの問題性を指摘していることです。また、コース転換制度のような見かけ上の平等性が実質的に役に立っていないことにも触れられています。


「京ガス」の事案

京ガスの事案では、女性事務職と男性監督職とのあいだでの賃金差別が争われました。京ガス側は「賃金格差は職種の差と人事考課の積み重ねの差であって、男女差別ではない」と主張していました。これに対して、森ます美さんは原告と弁護団からの依頼のもと、同一価値労働同一賃金の観点から職務評価をおこなって裁判所に意見書を提出しました。森さんは詳細に職務を数え上げ、海外のペイ・エクイティ法を参照した職務評価ファクターによって職務を点数化し、次のような職務価値の分布を作成しています*1


(森 2005: 282)

こうしてみると、実際には事務職の職務のほうが点数の高い位置に分布していることがわかります。ところが、賃金は監督職のほうが高かったのです。賃金の比と、職務の価値の比の食い違いは以下のとおりです。

【手当を除く年収】
監督職の男性 529万9950円:原告事務職女性 412万4600円 = 100:78

【職務の価値の平均】
監督職780点:事務職838点 = 100:107
(森 2005: 283)

職務の価値どおりに賃金が支払われていたら、事務職の女性のほうが賃金が高くなっていなければなりません。ところが、実際には117万円も監督職の男性のほうが賃金が高かったのです。

森さんが作成した意見書が功を奏し、この訴訟は一審京都地裁で原告勝訴。京ガスが控訴した大阪高裁でも、実質原告勝利で和解が成立しました。以下は原告女性の言葉です。

 私がこの裁判にかけた願いは、普遍的な課題として全国の女性たちの共通の思いになっています。雇用形態を問わず、私と同じように男性と同等、またはそれ以上の仕事をこなし、懸命に自己研鑽を積み上げながら企業に貢献してきた女性は数知れません。にもかかわらず女性であるというだけの低賃金は、女性の人格そのものを否定し、人間としての尊厳を踏みにじるものです。
(機関誌「いこ☆る」第7号  京ガス男女賃金差別裁判和解勝利報告 http://bit.ly/tgOvSl

「昭和シェル」の事案

昭和シェルの事案については、コース別ではなく、職能資格制度の問題点が論じられています。職務の価値でなく、あいまいな「職能」で人事考課をおこなうことが、実質的な男女差別につながるという問題です。昭和シェルの職能資格要件は次のようなものでした。


(森 2005: 87)

各等級に必要とされる要件が書かれているのですが、よく読むと、要件と職務が結びついていないことがわかります。具体的にどういう職務ができれば要件を満たすのか、よくわからないのです。したがって、この要件にもとづく人事考課は、客観的基準というより、属人的な主観や慣行にしたがったものとなってしまいます。そして、そこで実質的には性別による昇進差別がおこっていたのです。

男性社員は入社6〜8年目(標準年齢24〜26歳)に一般職のG2に、入社9〜10年目(同27〜28歳)にはG1に昇格し、G1までの職能資格等級については同一年度入社者のほとんどが同一時期に昇格している。監督企画判定職のS3Bには、早い者で入社13年目(同31歳)頃から昇格し、19年目(同37歳)までの間にほとんどの者が昇格している。
 一方、女性社員は、G3までは全員が同時期(4年目)に昇格していると推測されるが、G3からG2への昇格は、早い者(8年目2名)でも男性より遅く、昇格時期も人によってかなりのばらつき(8〜27年目)がある
(森 2005: 88)

要するに、同一価値労働同一賃金からはほど遠い、あいまいな人事考課のせいで、女性にはガラスの天井が設定されていたわけです。2003年1月の東京地裁判決では、これが男女別の基準による昇格管理と認められました(参考)。


商社のコース別賃金と年功賃金

今度は2011の論文のほうから。ペイ・エクイティ研究会がおこなった「商社の職務に関するアンケート調査」からの考察が載っています。営業職の男性42人(全員総合職)、女性77人(74人が一般職、3人が総合職)の回答から、職務価値と賃金月額がマッチングされています。


(森 2011: 67)

縦軸が月額賃金、横軸が職務価値ですね。●が女性、△が男性ですね。女性のほうが職務価値の低い領域に分布しているのがわかります。これはコースの影響でしょう。しかし、職務価値が同程度の領域でも、女性の賃金が相対的に低くなっていることもわかります。ここから、全体としては職務の価値に比べて賃金の差が大きくなっていることが指摘されています。

職務の価値の男女比 100:88 に対して賃金額の比は 100:70 と低く、女性に対して公平な賃金原資の配分が行われていない。
(森 2011: 68)

さらに言えば、男性のあいだでも、同程度の職務価値の領域で大きな賃金格差があることがわかるでしょう。これは勤続年数による効果だと説明されています(賃金額が40万円以下の男性のほとんどは勤続年数10年未満の若年層だそうです)。


(森 2011: 70)

こちらは縦軸に月額賃金、横軸に勤続年数をとった場合のグラフです。男性は勤続年数に応じて賃金が上がっていくのに対し、女性は横ばいになっている傾向がわかりますね。ここから読み取れるのは、男性に対する年功賃金と女性に対する低賃金、すなわち男性稼ぎ主モデル型の賃金体系であり、そのもとで同一価値労働同一賃金が達成されていないということなのです。

まとめ

コース別人事が同一価値労働同一賃金を阻み、男女別賃金を存続させているというのは、ある意味では当然のことです。だって均等法ができたときに、実質的に男女別賃金を維持するために導入されたのがコース別人事なのですから。頑なに男性稼ぎ主モデルを維持しようとする雇用システムに抗して、「募集と採用、配置と昇進」の差別を禁止するよう改正し、「間接差別を限定的禁止」にするよう改正し、というように、パッチワーク的に対処していっているのが、均等法改正の歴史なのです。間接差別への対応はまだ不十分だと言われています。

なお、同一価値労働同一賃金の不徹底は、正規/非正規の区別においてさらに大きな格差を生じさせます。その点については、以前にも紹介した以下の本が参考になるでしょう。

以上のように、同一価値労働同一賃金に限っても法整備がまだ十分ではなく、賃金差別の訴訟例だけでもいくつもある歴史を背負って、現在の私たちは働いています。賃金格差が問題とされているのだって、そうした歴史を踏まえて、なお解消されていない男性稼ぎ主モデルの不平等性が問題視されているからなのです。賃金格差問題は「平等な社会に自由な個人をばらまいてみたら格差が生まれました」なんていう牧歌的な問題ではないのです。この点で賃金格差問題は、「賃金格差は差別や不平等の結果ではない」と主張する側にこそ、そのことを証明する責任が負わせられるような問題です。少なくとも、ここで見てきたように同一価値労働同一賃金原則に反する差別的賃金体系が実際にあったのですから、現在の平均賃金格差の要因には同じような要素はないと主張するなら、そう主張する側に根拠を求めるのは正当なことでしょう*2



最後に、日本型の雇用システムに抗して均等法をつくるのに尽力した赤松さんの本から、83年当時均等法に反対していた日経連の主張をご紹介しておきましょう。

「平均勤続年数は男女間で明らかな差がある。男子労働者は生涯同じ企業で働くが女子はそうではない。その違いを基に企業の賃金体系、労務管理方法を組み立てている。男子は基幹労働、女子は補助労働を原則として日本の(世界に冠たる)終身雇用制度が維持されている。これを変えることは望ましくない。また男女平等に女性の待遇をあげれば人件費があがり、企業の競争力が低下する。一方女子労働者は勤労意識が低く、労働保護法規に甘えている。すべからく女子保護規定をなくすことが先決である」
(赤松 2003: 69)

「今はもう平等だ。あとは個人の選択の問題だ」と2011年に言っている人たちと、どこか似ていませんか。



均等法をつくる

均等法をつくる

*1:職務を点数化して評価するのは、同一価値労働同一賃金の遂行に効果的と言われている方法です。

*2:この問題を議論するときに、「差別や不平等の結果ではない」という事実を推定としてそれに反論する側に一方的な挙証責任を負わせようとする態度は、日本の戦争責任を論じるときに「南京事件は存在しない」という事実を推定してそれに反論する側に一方的な挙証責任を負わせるのと同じ、非科学的で常識外れのふるまいです。議論とは別の目的があるなら別ですが。

賃金格差問題エントリへの補遺

前エントリへのたくさんのご反応ありがとうございました。ただ、ツイッターでのやりとりを前提にしていたものだったので、そちらを継続的にご覧になっていない方には文脈がわかりづらかったかもしれません。そのせいか、いくつか誤解にもとづくと思われるご反応もいただきました。

このエントリでは、もっとはっきり前エントリの趣旨を述べるとともに、お寄せいただいたご意見のいくつかにお答えすることで補遺としたいと思います。

1. なんで賃金格差の話なんぞしてたのか

前エントリでは、男性一般労働者と女性一般労働者の賃金を平均して比較したときにこれだけの差がありますよーっていうお話をしました。そして、その差をもたらす要因は主に「職階」や「勤続年数」の違いだと言われてますよーという話もしました。

で、そうすると当然、「じゃあ職階や勤続年数の違いはどうして生まれるの?」ということが気になってしまいますよね。ここから、前エントリは「職階や勤続年数の違いを生む要因は○○です」という立論を私がしたという印象を一部の方に与えてしまったのかもしれません。

でも違うんです。

私が前エントリでやろうとしたのは

男女間の賃金格差は、個人が各自の選好どおりに「働く」「働かない」という選択をした結果であるので、是正の必要はない(是正を試みることは各自の選好に踏み込むことになる=自由の侵害になるのでよくない)

という主張に対して、政府が公表している数字とその解釈についての「公式見解」を紹介することで、「その主張は無理だよ」と言うことだったのです。

賃金格差の主な要因を考えるとき、上の主張はとても強い主張です。だって、女性が結婚・出産を機に「仕事をやめる」という選択をおこなうことで勤続年数が短くなったり、女性の職階が上がっていかない(昇進しない)ことについて、そこには不平等や差別による要因はまったくない(あっても是正すべき賃金格差を生むほどではない)という主張なのですから。

それに対して私はふたつの指摘をしました。ひとつは

ということ。働き(続け)たかったのに、家事育児との両立が難しく仕事をやめた女性がいるなら、その選択は労働についての彼女の選好どおりではありません。そして圧倒的に女性にだけ家事育児負担がかかっている日本の現状では、それは実質的な機会の不平等の結果だと考えられます。

それからもうひとつは

  • 昇進差別、間接差別、統計的差別などがあるという議論がされていますよ

ということです。こっちはもうそのまんまですね。差別があるなら、格差がその結果ではないかと推測することは十分合理的です。

そして、こうした公式見解がありますよ、というだけで、「賃金格差は是正すべきではない」という主張に対する反論としては、さしあたり十分です。それでもなお「是正すべきではない」と主張する人がいるなら、そう主張する側に、職階や勤続年数の違いが不平等や差別の結果ではないことを、上記の二つの根拠に抗するくらいの強さを持つ根拠で示す責任があるはずです。なにしろ元々の主張には(「選好どおりかもしれないだろ!」という何のデータにも基づかない想定以外には)特に何の根拠もないのですから*1

以上が前エントリの論旨の説明です。以下は補遺。


2. 「それだって選好と言えないこともない」に対する注意点

ひとつ重要な注意をしておきます

たとえば「仕事をやめる」という女性の選択について、「それも選好ではないか」という形での反論がいくつかありました。uncorrelatedさんのブログがそうですし

それらの女性就業希望者は、そもそも独身生活を貫いて家事・育児を回避する事を好んでいない。また、家庭で夫か妻のどちらかが育児を行う必要があったときに、それを妻が担当することが好まれているとしか言えない。*2
(男女格差のデータは女性差別を意味するか? ─ 社会学者・小宮友根の誤診)
http://www.anlyznews.com/2011/10/blog-post_27.html

小倉弁護士のこの発言も論旨はいっしょです。

男性の底辺労働者がやむなく従事している低賃金かつ重労働を回避した結果、働きたいけど働き口がないという状態に陥っている場合、働かないことを選好していると言えないのだろうか。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/129377888771387392

でもこういう反論はダメです。

何がダメかというと、「働く(仕事を続ける)/働かない(仕事をやめる)」という選択肢と、「家事育児をする」「賃金が低い」「重労働だ」等々の条件を区別しないで、全部まとめて選択肢として扱ってしまっていることです。これは、頭に銃を突きつけられて「歩かなければ殺す」と言われて歩くという選択をすることを、「殺されるより歩くことを選好した」と言うようなものです。重要なのは、「歩く/歩かない」という選択に対して、「銃を突きつけられて命令される」という条件が与える影響を考えることであるはずなのに、その条件を選択肢に含めてしまったら、おこなわれたすべての選択について「それを選好した」と言うことが可能になってしまいます。これでは「選好」なんて言葉を使う意味がありません。

目下の議論について言えば、私が紹介した数字から推測される「働き(続け)たいけど、家事育児が負担でできない」という事態は、「働く(仕事を続ける)/働かない(仕事をやめる)」という選択において「選好どおりの選択ができない条件がある」ということを意味しています。本当は歩きたくないのに歩くことを選ばざるをえない条件(銃による命令)がある」というのと構造は同じです。

それに対して「いや選好どおりだ」と反論するなら、条件を選択肢に含めるのではなく、条件を吟味することでそれをおこなってもらわなければなりません(「奴は銃は空砲だと知っていたはずなので命令の影響はない」とか「実は最初から歩きたかったと言っていた」等々を示す)。女性の労働の場合は就業希望者がいる以上(その希望が実は本気ではないとかいうのでないかぎり)「選好どおりだ」と言うのはかなり難しいとは思いますけれど。

3. それでも…

小倉弁護士は前エントリをお読みになったようですが、それでもまだ賃金格差は個人の選好どおりの選択の結果だと仰りたいようです。昨日「賃金格差の要因は何だとお考えですか」としつこくお尋ねしたら、ちょろっとお考えを披露してくださいました。

強いて抽象的な話をすれば、職種やポジションによって賃金水準がばらばらであることと、女性の上昇婚志向を前提とすると、男性の側に高賃金の仕事を選択するインセンティブがより強いこと。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/129618582605795328

つまり、男性のほうが給料の高い仕事につこうというインセンティブがあって頑張って給料の高い仕事につくから賃金格差が生まれるんだ、というお考えのようですね。

でも、これって本当に前エントリ読んでいただけたのか、疑いたくなっちゃうようなご見解です。賃金格差の主な要因は「職階」次いで「勤続年数」ですよってご紹介したのに、何で「仕事の差」が出てくるんでしょう。

実際賃金格差の主な要因が仕事の差でないことは、年齢階級別の格差を見てみれば推測できます。2009年に厚労省が出した「男女間の賃金格差レポート」(PDF注意)にグラフがあるので見てみましょう。このレポートも前に紹介ツイートしたことがあるやつです。

(男女間の賃金格差レポート p. 3)

ごらんのとおり20-24歳階級、25-29歳階級あたりまでは、階級内での賃金格差は男性100に対して女性80を超えており、それほどでもないんです。もし「男性のほうが給料がいい仕事につく」ことが賃金格差の主要な原因なら、仕事についた段階の年齢階級からもっと格差が開くはずですよね。ところが実際には若い年齢階級では格差はそれほどでもなく、年齢階級が上がるにつれて格差がどんどん広がっていくのです。女性が途中で仕事をやめるか、あるいは勤め続けていても職階が男性と同じようには上がっていかないことで、年齢階級が上がるにつれて高い職階に占める男女の数に大きな違いが生まれていくのでしょう*3

さらに言えば、前エントリでご紹介したパンフレットを丁寧にご覧になった方はお気づきになったかもしれませんが、男女がついている仕事の産業による違いが賃金格差に影響を与えているかどうかについては、実は検討されているのです。賃金格差レポートのほうには詳しい説明つきで載っているので紹介しましょう。

(男女間の賃金格差レポート p. 2)

はい。「産業」要因は、賃金格差に対してマイナスに効いていますね。書かれているとおり、女性の比率が高くて賃金水準が高い業種があるので、業種の男女差は平均賃金格差を縮めているのです。小倉弁護士の言ってることとは、まったく逆です。

せっかく「職階」「勤続年数」ですよって紹介してあげたのだから、それくらい認めた上で議論をしてくださってもいいのに、どうしてデータのない持論にこだわり続けるのでしょう。それとも、私も政府も知らないような決定的な根拠をお持ちなのでしょうか。もしそうなら、すぐに論文にして発表すべきです。無駄な税金を使わなくてすむようになるのですから。「格差があっちゃダメですか?」って論文書いて大々的に発表したら蓮舫さんより有名になれるかもしれませんよ!

4. その他

その他いくつかあったご意見に対しても簡単におこたえしておきます。

  • 男性のブラック労働はどうでもいいってのかごるぁ!
  • 男性が主夫になれないことは無視なのね…
  • なんだ解決策はないのか

少し考えればおわかりいただけるのではないかと思うのですが、男性稼ぎ主モデルのもとで女性が労働市場への十全な参加を阻害されているのなら、逆に男性は家庭への参加を阻害されているのです。両者は裏表の現象であり、片方だけが解決することは基本的にはありません(外国人労働者に家事育児を外注するとかいうシナリオなら別ですが…)。ですから、前エントリで書いた機会の実質的平等のための取り組み(賃金体系の見直し、同一価値労働同一賃金の徹底、ワークライフバランスの推進など)はそのまま、男性が家事や育児に参加する機会を平等にしていくことにもなるでしょう。

  • ミスコン関係なくね?

前エントリの最後にちょこっと書いたこと以外は、関係ないっすね。ていうかもともと小倉弁護士がミスコン批判を批判するのに階層論持ち出してるのがおかしいのですよ。私の指摘は「ミスコン批判を批判するために女性の経済的地位に関心あるふりするのやめろ!」です。

  • やりすぎじゃね?

僕だって研究に専念したいですよ!


5. おまけ

5-1. 「今でも差別あるよ」なんて研究たくさんあるってさー(そりゃそうだよね)

私が専門外のことでぐだぐだしてるのに業を煮やしたか、本業の筒井先生から「そんな研究たくさんあるのに」というご指摘をいただきました。ご紹介しておきます。

@frroots @46yzr 賃金格差を説明した経済学の実証研究は(当然ですが)多いんですよ。たとえば経済学の論文ですが、男女の賃金格差の要因を推定した論文(goo.gl/PEqlP)
http://twitter.com/#!/sunaneko/status/129612762182721537

@frroots @46yzr 先の論文だと「男女間賃金格差については..男女の平均的な生産性の違いでは説明できない賃金格差が存在しており..この点については経済合理性から説明することは難しい」(要旨)という結論です。
http://twitter.com/#!/sunaneko/status/129612927522193409

@frroots @46yzr あとはこれ(goo.gl/33UeW)とかですかね。「労働者の属性を詳細にコントロールし... 日本の労働市 場では使用者の嗜好に基づく女性差別による女性の過少雇用が存在する。
http://twitter.com/#!/sunaneko/status/129614567654428673

差別についてもっとバリバリ統計的に専門的検討したいぜーって方は、こういう論文読んで検討なさったらいいと思いますよ!私は専門じゃないからしないけど。


5-2. 文献紹介

まず均等法について一冊。日本の伝統的な雇用システムは、男性稼ぎ主モデルのもとで、いわば男性を囲い込んで女性を排除するようなシステムでした。均等法以前は平気で女性だけ若年定年制とかありましたし。住友金属でどんなひどいことがおこなわれていたかとか、訴訟を闘った人びとの記録などを見るとわかります。読んでて胸が痛くなります。小倉さんは弁護士としてこういう歴史をどうお考えなのでしょうかね。

ともあれそういうシステムなので、均等法はそれと真っ向から対立するようなものだったわけです。ですからその制定に向けて努力した人たちの苦労は、想像するにあまりあるものです。なにしろ「均等法」っていう名前からして、「男女雇用平等法」っていう名前が通らなかった結果なんですから*4。そういう歴史を少しでも知っておくことは、大事なことかと思います。「均等法ができて平等になったじゃーん」とかのほほんと言わないために。というわけでこれ。

均等法をつくる

均等法をつくる

それから同一価値労働同一賃金については、前エントリでご紹介した森ます美さんの本に加えてこれもご紹介しておきます。

最後に、手前味噌ですが自分の本を紹介しておきます。ミスコンとも労働問題とも関係ないですが、「その選択、ほんとに自由に選ばれたもの?」という問いとは関係しています。

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

実践の中のジェンダー?法システムの社会学的記述

今回も、「それが自由な選択でないことを実証しろやごるぁ!」みたいな反応がちらほらありました。こういう問いを発する人は、ある人の選択が自由なものであるかどうか、統計データを調べればそれだけでわかると思ってるのでしょうか。

もしそうならそれは間違いです。「選好」という言葉への注意の所でも述べましたが、ある人のある選択を自由なものと我々が理解するかどうかは、その選択の条件の影響の評価にかかっています。したがって、どのような条件があるかを知っても、それだけでは自由だとか自由じゃないとか決まるわけではないのです。

たとえば専業主婦が家事育児をしていることを我々は知っています。でもそこで、家事育児が彼女が仕事をすることを妨げる「負担」となる条件かどうかの判断は、その仕事の大変さをどう評価するかに左右されます。「専業主婦って楽でいいなー」という偏見を持っている人は、家事育児をたいした負担だと評価せず「働きたかったら就職活動するはずでしょ。してないなら働かないのを選好してる!」と呑気に言うかもしれません。

そして我々は、自分がそのもとに身を置いたことのない条件については、それがどれくらい自分の選択に影響をおよぼすか、しばしば容易には想像できません。そうした場合には、条件の影響を過剰に強く/弱く見積もってしまう危険性が常にあります。とりわけ男女で大きく経験が異なる条件については、このことには注意しすぎてもしすぎることはあないでしょう。特に、女性は「どんな女性か」というステレオタイプな偏見によって「選好」を判断されてしまいがちです。だからこそ、過去には差別がありそれを訴えてきた人たちがいること、現在非労働力人口でも就業希望している女性がいること、そうした当事者たちの経験は、それなりの重みを持って受け止められなければならないと思うのです。

私の本の後半では、性犯罪事件の裁判の中で「性的自由」という概念が、いかにジェンダー化されて理解されているかを論じています。ご関心がありましたら、お近くの図書館にでもお取り寄せいただいてお手に取っていただければ幸いです(もちろんご購入いただければなお嬉しいですけども!)。

ちなみに前半では、そういう話をするための社会学の理論・方法論的な話をしています。

おしまい。

*1:久保田さんも指摘しているように、明確な差別が過去にはあり、そして現在でもなお他の先進諸国と比較して大きな賃金格差が残っている以上、差別もまだ残っているのではないかと推測するのが合理的な考えというものです。本当は「現在はもう平等だ」と主張する側に最初っから立証責任負わせたっていいくらいです。

*2:これについては「家事・育児の回避」が「独身を貫くこと」になっていたり、「妻が担当すること」を好むのは誰なのか主語がわからなかったりするという、目下の問題以前のどうしようもない問題がありますが、とりあえず置いておきます

*3:そして、格差は少し縮まっているものの、格差が生まれるこの傾向自体は、均等法制定直後の88年からずっと変わっていません。このことは、当時と同じ差別の構造が残っていると推測する有力な根拠にもなるでしょう。

*4:これとよく似た例は、実は現在でもあります。そう、「男女共同参画社会基本法」ですね。これ英語だと "gender equality law" つまり男女平等法なんですよ。ことほどさように、いまなお「平等」という言葉すら使えない社会に私たちは生きてるのです。

男女間賃金格差問題の基本のき

ええと、どうでもいい話といえばどうでもいい話なのですが、twitterで発生したミスコン批判をめぐる議論の中で、「反ミスコン批判」の立場に立つ小倉弁護士の女性労働についての認識がアレなことになっていたので、議論が雲散霧消する前に書きとめておきます。

小倉弁護士がミスコンを擁護していた理由は

  • 「容姿にすぐれた女性が容姿によって経済的地位達成する機会を奪うな」

でした。

その小倉弁護士が「現在は労働市場は男女平等*1で、賃金格差の問題などない*2」という主張をなさっていたので、私はびっくりしたわけなのですね。「この人ほんとに女性の経済的地位に関心あるんかいな」と。

以下では、小倉弁護士のこの認識がどう誤っているかを、賃金格差問題のごくごく基本的なこと、基本の「き」ぐらいのことからだけで確認しておきたいと思います。

参考にするのは厚生労働省が2010年8月に公表した「男女間の賃金格差解消のためのガイドライン」パンフレットです(内容的にはパンフレットの最初の4ページについてだけ)。

なお、私は労働論も階層論も専門ではありません。以下は学部1、2年生用の授業のために集めてた資料(主に政府公刊物)の切り貼りで、統計的に難しい話とか出てきません。もし間違ってるとこあったら教えてくださいませ>識者の方々

1. 賃金格差の実態

まずは一番基本的な数字の確認から。
男性一般労働者の所定内給与額を100.0としたときの、女性一般労働者の所定内給与額の値です。

(パンフレット p. 2)

86年以降ゆるやかに改善傾向にありますが、09年時点でも69.8となお大きな格差があることがわかります*3
これは国際的に見ても大きな格差です*4
じつは非正規労働者との格差はもっとすさまじく、女性労働者の半数以上が非正規労働者となった現在ではそちらの問題がむしろ重要なのですが、今はとりあえずそれは置いておきましょう。

さて、小倉弁護士は当初、男女間での「就業機会と所得格差は85年の均等法によって急激に改善された」と主張していました。

(15:40発言リンク追加)
雇用均等法以降急激に改善しているという認識です。RT @tarareba722: ふむむ、なるほど。では少なくとも立法時には、男女雇用機会均等法が必要な程度には男女の就業機会や所得格差はあったな、という認識なんですね? 今は違うと?
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/126291666545016832

でも上のグラフだけ見ても、「ある時点を境に急激に改善された」なんていう事実がないことはあきらかですね*5。この点を私が尋ねると、次のような認識を披露してくださいました。

急激ったって、限度はありますね。RT @frroots: 「程なく」ってどれくらいですか?85年を境に「急激に改善された」のではなかったのでしょうか。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/126345699263651840

変わった時期は第一次就職氷河期でしょうね。RT @frroots: ではどの程度の期間に何がどう変わったことを「就業機会と所得格差の急激な改善」と仰ったのかお教えいただけますか。どこに事実認識の違いがあるのか知りたく思いますので。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/126350277950447616

コース別人事制度採用企業の減少、採用企業での女性総合職採用比率の上昇、コース転換制度とその活用。RT @frroots: 何がどう変わったと仰っているのでしょうか。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/126356706274979840

つまり、「急激に」と言うのは「85年均等法からしばらくたった第一次就職氷河期(90年代前半〜半ば)」のことであり、そこで「コース別人事制度採用企業の減少、採用企業での女性総合職採用比率の上昇、コース転換制度とその活用」などが生じることで、賃金格差も改善した、というのが小倉弁護士の認識のようです。

しかし残念ながらこの認識は誤りです。

まず第一次就職氷河期を境に賃金格差が劇的に改善しているわけではないことは上のグラフからも明らかです。

続いてコース別人事について言えば、多くの企業がコース別人事によって実質的な男女別賃金体系を維持していくのは、85年の均等法以降のことです。なぜなら、85年均等法では定年・解雇・教育訓練などについて男女差別が禁止されたのみで、募集・採用・配置・昇進における男女の平等な取り扱いについては「努力義務」に過ぎなかったので、コースを分けて男女別に採用すれば、実質的な男女別賃金が実現できたからです。これらについても差別が「禁止」となるのは、ようやく97年に均等法が改正されてからのことです*6

さらに総合職への女性採用比率も、厚労省が公表している『コース別雇用管理制度の実施状況と指導状況について』によれば、2001年時点でわずか2.2%です。

要するに、85年から90年代半ばまでの間に就業機会と賃金の男女間格差が改善されたなんていう事実はないのです。実際、やはり厚労省が公表している『働く女性の実情』によれば、2000年の時点で、就職活動中に活動者が出会った差別もいくつも報告されています

このように均等法についての認識からだけでも、労働市場における男女の機会平等をめぐる小倉弁護士の認識は相当おかしいことがわかります。

2. 賃金格差の原因

では、賃金格差の原因はいったい何なのでしょうか。(小倉弁護士は「家庭内の経済格差が原因」というよくわからないことを言っていましたが)パンフレットの4頁では、男女間の賃金格差にもっとも影響を与えている要因は「職階」(続いて勤続年数)であると示されています。つまり、高い職階に占める女性の割合が低いことが一番の要因だということです。実際どんくらい低いかというと、これくらいです。

(パンフレット p. 4)

部長相当職にいたっては09年時点で3%ですから、「ほとんどいない」と言っていいような状態です。課長相当職以上の国際比較は5頁にありますね。

ところが、小倉弁護士によれば、職階や勤続年数の違いによって賃金格差が生じることは何ら是正すべき問題ではありません。なぜなら、女性が仕事をやめたり、賃金の低いパート労働に就いたりすることは、女性個人の自由な選択の結果だからです。したがって賃金格差を是正しようとすることは、逆に個人の自由を制限することであり、認められないというのが小倉弁護士の主張です。

任意に専業主婦+パート労働につく人が相当数いることを無視されてもなあ。RT @frroots: 多数の女性にとって経済的地位達成なんてハナから門戸が閉ざされている状態なの。女性労働者で年収300万超える人は34%に満たないんですよ。700万超える人なんてわずか3%。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/125043522507255808

平均賃金に男女間格差がない社会を作るためには、同一労働で女性割増賃金を実現するか、給与水準の低い職業に女性が就こうとすることを政府が制限することが必要となります。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/127878908216492032

選択の結果ですね。こういうものを実質的な不平等に含めるのだとすると、その解消のためには、むしろ女性の選択の自由を政府が制限することが必要になりますね。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/127901502206509056

もちろん、すべての女性がキャリアアップを望まず、出産・結婚を機に仕事をやめたいと思っていて実際にやめ、それゆえに勤続年数や職階の男女差が生じ、結果として賃金格差が生じるという事態を想定することは可能です。

しかし、現実は本当にそんな麗しい自由な世界になっているのでしょうか。

パンフレットの5ページには賃金格差を(つまりは職階や勤続年数の差を)生むさらなる原因として、次のふたつの側面が挙げられています。

  • 制度設計の面
    • 性別役割分担意識を持って運用されることが実質的に容認される制度になっている
    • 家事、育児と仕事との両立が困難な制度になっている
  • 賃金・雇用管理の運用の面
    • 採用、配置や仕事配分、育成方法の決定、人事評価や業務評価などの側面で、男女労働者間に偏りがある

以下順番に見ていきましょう。


2.1. 性別分業の影響

多くの女性が結婚や第一子出産を機に仕事をやめることは事実です。また、子どもがある程度成長してからは(多くは非正規労働者として)労働市場に再参入するので、女性の労働力率は有名なM字型カーブを描くことになります。

さて、このような女性の一般的なライフコースが、必ずしもすべての女性にとって「個人の自由な選択」と言い切れるものではないことは、しばしば「潜在的労働力率」によって説明されます。潜在的労働力率は、実際の労働力率の分子に就業希望者をくわえた場合の労働力率です。要するに「実際には働いていないけど、働きたいと思っている人が働けていたとした場合の労働力率」ですね。2009年版の『働く女性の実情』から引用してみます。

(『H21 働く女性の実情』p. 18)

試しに30-34歳の年齢階級を見てみると、女性の労働力率は64.1です。それに対して女性の潜在的労働力率は79.4です。つまり、15.3ポイントぶんだけ、「働きたいけれど、働けていない」女性がいるわけですね。25-49歳までの年齢階級において、女性の実際の労働力率潜在的労働力率の差が男性とくらべて大きいことがわかります。

まずはこれだけ取ってみても、「仕事をやめる」という選択が、少なからぬ女性にとって「任意」の選択というよりは、「本当は働きたいけれども仕方なく」という側面を持っていることが推測できようかと思います。

ところが、小倉弁護士によれば違うのです。小倉弁護士によれば、女性の非労働力人口における就業希望者の存在は、「やめるときは本気でやめたくてやめた女性が、あとから働きたくなったことで生じている」そうなのです。

新卒時に勤めた会社を結婚や出産等を機会に一旦やめた女性が再び働こうということになったときに職場が見つからないという例が、男性より女性に多いということでしょうね。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/127899648370290688

やめたときにはやめたかったんでしょう。人間の選択ってその時々で変わるのですよ。RT @frroots: 就業希望者なら結婚・出産しても仕事をやめずにすむなら、やめないでしょう。にも関わらず、「就業希望者が」やめるという選択肢を選ぶなら、選ばざるをえない事情があるわけです。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/127903012709601281

まるで日本の女性は仕事をやめるにあたって、将来働きたくなるかどうかも、再就職のしにくさも考慮にいれない場当たり的な考えしか持たないのだと言っているようでアレなのですが、まあ可能性としては確かにそういうことも考えられなくもないかもしれなくもないでしょう。

しかし、その解釈にはさすがに無理があります。

もし小倉弁護士の解釈が正しければ、結婚・出産などで「やめたくてやめる」人が出てくる年齢階級では労働力率潜在的労働力率の差は小さく(「希望どおりやめてる」のだから)、逆に「また働きたくなる」人が増える年齢階級以降では、その差が大きくならなくてはなりません(「再び働きたくても職場がみつからない」のだから)。ところが実際には、差が最も大きくなるのはM字型の底にあたる35-39歳年齢階級で、その後差は縮まっていくのです。

では、就業を希望していながら、実際には求職することができない*7女性たちは、どのような理由でそうなっているのでしょうか。同じ『働く女性の実情』の中では、就業希望者に非求職理由を尋ねています。

(『H21 働く女性の実情』p. 19)

25歳以上で、圧倒的に「家事・育児のために仕事が続けられそうにない」という理由が多いですね。要するに、「働けるなら働きたいけど、家事・育児があるからできない」状態だということです。

よく知られていることですが、日本の女性の家事・育児負担は相当に強烈です。言い方を変えると、日本の夫は強烈に家事・育児をしません。09年の『男女共同参画白書』からグラフを借りてみましょう。

(H21『男女共同参画白書』p. 75)

見ての通り、妻が専業主婦だろうが、短時間労働者だろうが、フルタイム労働者だろうが、夫の家事・育児・介護等時間は30分程度で変わりがありません*8。このことが意味するのは、日本の女性は、結婚したらその途端に家事のほとんどを負担しなければならなくなる(そして子どもができたら育児のほとんどを、要介護者が出たら介護の…)ということです。

このことと、これまた悪名高い日本の労働者の長時間労働(『H18 国民生活白書』)などをあわせて考えれば、それだけでも、結婚・出産をして女性が就業継続していくことの大変さが想像ができるでしょう。

日本の雇用システムは極端な「男性稼ぎ主モデル」であると言われます。「夫が稼いで、妻が家事・育児(と家計補助の非正規労働)をする」というモデルのもとでは、「正規労働者」というのは「家のことをやってくれる人(=妻)がいるがゆえに長時間労働や転勤ができる人(=夫)」のことであり、家事・育児を負担する人は時間的にも体力的にも正規労働者として就業継続することが難しい状況におかれます。

小倉弁護士はもちろん、この圧倒的に偏った家事分担も「夫婦間で決めたことだから問題ない」と言うでしょう。しかし仮に女性が自ら望んでこれだけの家事育児負担を負っていたとしても、それゆえに働きたくても就業継続できないという状況に女性が置かれることには変わりがありません。つまり、労働市場への参入という機会を考えるとき、ここには実質的な機会の不平等があることになります。

パンフレットの中で「家事、育児と仕事との両立が困難な制度になって」いないかどうかに注意が促されているのも、賃金格差の解消のために「ワーク・ライフ・バランス」の取り組みが必要だと言われるのも、こうした理由からなのです。


2.2. 賃金・雇用管理上の差別

パンフレットには制度設計の側面に加えて「賃金・雇用管理の運用の面」に注意が向けられています。つまり、職階の違いを生み出すような差別的待遇が、現在もあるのだということです。これはふたつの点から考えることができるでしょう

ひとつはやはりコース別人事です。『論争・日本のワーク・ライフ・バランス』の中で山口一男氏が論じていることですが、総合職と一般職では賃金プレミアムが異なり、年齢による賃金勾配がまったく異なってきます。つまり、一般職は長く勤めていても賃金が上がらない賃金体系になっているということです。そして、97年均等法改正で男女別の募集・採用・配置・昇進は禁止されたとはいえ、上で述べたように正規雇用における総合職の女性比率は極めて低く、95%以上の女性が一般職についています。山口氏が指摘しているのは、実質的な男女別賃金体系のもとで労働者のインセンティブが異なってしまうという統計的差別問題です。また、上記の家事育児負担の問題とも関係して、間接差別が存在していないかも重要な問題です(06年の均等法改正で全国転勤を要件にした総合職募集と転勤経験を要件した昇進については禁止されました)。

論争 日本のワーク・ライフ・バランス

論争 日本のワーク・ライフ・バランス

もうひとつは、同一価値労働同一賃金原則が通用しておらず、経歴や年功などの「職能」で賃金評価がおこなわれることの問題です。労働者がおこなっている職務を評価するのではなく、属人的な職能評価がおこなわれるので、人事考課に性差別が入りやすいということです。これについては森ます美氏が『日本の性差別賃金』の中でくわしく論じています。

日本の性差別賃金―同一価値労働同一賃金原則の可能性

日本の性差別賃金―同一価値労働同一賃金原則の可能性

住友金属や昭和シェルの事例から、実際には同一ないし類似の職務をおこなっているにもかかわらず、女性だけが職能資格等級が上がっていかない仕組みが丁寧に明らかにされています。

女性だけ昇進させなければ当然職階に違いが生じますが、そこまでいかなくても、仕事の配分を変えたり、訓練・研修等の教育機会に差をつけたりすれば、能力開発の機会に差が出ることで、結果的に管理職比率の差につながるでしょう。また当然労働者のインセンティブの差にもつながるでしょう。訴訟になった事例だけでもいくつもあるのですから、こうした事例が現在ではほとんど存在しなくなっているとは考えにくいです(だからこそこのパンフレットでも注意が促されているのでしょうし)。少なくとも、こうした差別をおこなっている企業が現在はないか、平均賃金格差に影響を与えないほどごくわずかであると主張する側には、それなりの実証的根拠が要求されるでしょう。

まとめ

このごくごく基本的なことの確認で私が言いたいのは単純なことです。正規労働者として、みずから経済的に自立するために労働市場に参入しようとするとき、男性と女性では「働き続ける」という選択肢の選びやすさが全然違う、ということです。家事育児負担を負い、また差別的な賃金体系も残る中では、女性にとって「働き続ける」という選択肢は(少なくとも男性とくらべて)非常に選びにくいものです。この条件の違いを考えたとき、少なくとも経済的地位達成という点において、男女の機会は実質的には平等にはほど遠いと言うべきでしょう*9

もちろん、個々人は自ら「選んで」仕事を続けたり辞めたりしているわけです。それを「個人の自由な選択」と呼びたければ、呼ぶこともできるかもしれません。でも、頭に銃を突きつけられて「歩け。歩かなければ殺す」と言われて歩くことだって、殺されるより歩くことを選んでいるという意味では「個人の選択」です。けれどその「歩く」ことを「自由な」選択だとは私たちは言わないでしょう。そこでは、「歩く」という選択肢と「歩かない」という選択肢のあいだには、選びやすさにおいて圧倒的な非対称性があるからです(殺されることを決断するのはたいへんです)。同じように、女性が「働き続けること」を考えるときにも、それが女性にとってどれくらい選びやすい選択肢になっているかを、さまざまな条件から考えてみなければなりません。

小倉弁護士は、男女間の賃金格差を現在より縮小しようとすることは、個人の自由の侵害になると考えているようです。

じゃあ、茨の道を歩きそうですね。女性の側の選好にまともに踏み込んでいかないといけないので。
http://twitter.com/#!/Hideo_Ogura/status/128771962284687360

しかし、パンフレットの6ページにあるような点検を企業におこなわせ、ポジティヴ・アクションによって女性を支援するとともにロールモデルを提供し、ワーク・ライフ・バランスを進めていくことは、別に「個人の選好に踏み込むこと」ではありません。それは選択肢の選びやすさができるだけ性別によって異なることのないようにする、つまり実質的に機会を平等にするための取り組みなのです。

もしこうした取り組みを「個人の選好に踏み込むこと」だと本気で考えるなら、小倉弁護士はミスコン批判しているフェミニストをおちょくってる暇などありません。全力で政府に抗議しなくてはなりません。我々の自由が(我々の税金によって)危機にさらされているのですから!

ちなみにですね、私としてはここに書いたことがすべて正しかったとしても、「容姿にすぐれた女性が容姿によって経済的地位達成する機会を奪うな」という反ミスコン批判の立論それ自体はなお可能だと思うですよ。ただ、ミスコンなくなったとしても芸能オーディションや「なんちゃらキャンペーンガール」みたいなのがなくなるわけでもなし、テレビ局にエントリーシート出せなくなるわけでもなし、なので「容姿でのしあがりたい人」の機会がたいして減るとは思えないですし、それよりは圧倒的多数の女性にとってはここに書いたことのほうが自分の経済的地位にとって大きな影響を持つわけなので、本当に女性の経済的地位に関心があるなら、反ミスコン批判なんてしてないで賃金格差問題取り組むべきですよ、とは思うけどね*10

おまけ

ミスコンの話から随分遠くに来てしまったのですが、少しだけ関係する話もしておきます。上記のような就業継続の困難さがあることで、女性の場合は職業によって経済的地位を獲得することが男性にくらべて難しくなっています。そうすると、女性にとっては「結婚」による経済的地位の達成が重みを持ってくることになります。

このことを確認するため、日本に特徴的な傾向として、しばしば「高学歴女性の専業主婦化」という現象を挙げておきます。木村邦博氏は、『日本の階層システム4 ジェンダー・市場・家族』に収められている「労働市場の構造と有配偶女性の意識」という論文の中で、「高学歴女性の専業主婦化」現象を、「労働市場の分断のもとでの合理的選択」から説明しています*11

女性も(男性と同様に)大学・短大進学が職業的地位達成の手段であると見なしており、性別役割分業に否定的な女性が大学・短大に進学しようとする。しかし、フルタイムの労働市場では女性が結婚・出産後も就業を継続しにくい環境があり、多くの女性が結婚・出産を機に退職する。性別役割分業に否定的で就業継続を希望する傾向のある大学・短大卒の女性にもこのことはあてはまる。その後、有配偶女性が再就職しようとしても、フルタイム労働市場には戻りにくい。これに対してパートタイム労働市場では、企業が学歴や配偶関係にかかわらず女性を安価な労働力として採用しようとする。ここに引きつけられるのは、高校・中学卒の方である。高校・中学卒の女性は、高校・中学卒の男性と結婚することが多く、夫の収入がそれほど高くないので、家計補助のために働きに出る必要がある場合が多いからである。こうして、大学・短大卒よりも高校・中学卒の方が専業主婦の比率が小さくなり、志望していたのとは異なる就業形態に至る有配偶女性が多いことになる。
(木村 2000: 184-185)

こうした事実があるなら、日本の女性にとって、学歴は職業だけでなく結婚を媒介にして、自らの経済的地位に関与することになります。今回ミスコン批判者に向けられた揶揄の中に、「ミスコン批判は高学歴女性が学歴で得た自分の地位を守ろうとするもの」だというものがありました(まあ言ってたのは小倉弁護士ですが)。しかし、木村氏の説明が正しければ、日本の女性については学歴メリトクラシーさえ普通にはあてはまらないのです。むしろ、学歴にかかわらず女性に(結婚市場における価値としての)「若さ」や「容姿」プレッシャーがかかるという(わりと常識的直観にかなった)傾向が示唆されているのではないでしょうか。労働市場における機会の不平等と、「女の価値は容姿」という価値観は、多分無関係ではないですよ。どっちがどっちの原因みたいな単純な話ではなく。

*1:14:37追記:たとえば「同じ学歴でも女性のほうが不利」という私の発言に対して「いつの時代の話?」と返答されています

*2:15:40追記:「所得格差は均等法で急激に改善された」という認識を述べられています。すぐ後で述べますがこの認識は誤りです。

*3:ちなみに10年は69.3と少し拡大してしまいました

*4:2007年の男女共同参画白書参照

*5:19:00追記:この点について「85年で急激に改善されたかどうかは86年からのデータじゃわかんねーじゃねーか」というご指摘をいただきました。まことにごもっともでございます。お詫びするとともに数字をご紹介しておきます。84年は58.6、85年は59.6でございます。NWECのデータベースで「男女間格差」とでも検索していただければ、賃金構造基本統計調査のデータをご確認いただけると思います。とはいえ、小倉弁護士が「急激に」の時期を「第一次就職氷河期」までの時期とご指定くださっておりますので、結果的には本論の論旨には影響はございませんね。

*6:しかしその後も転勤等を要件とした間接差別の利用や、非正規雇用の拡大などにより、実質的な男女別賃金は維持されていきます。間接差別が限定的に禁止とされたのは06年の均等法改正時でした

*7:「就業を希望していて求職していない」という表現は奇妙に聞こえるかもしれませんが、労働力調査では現在仕事についていなくても、求職活動をしている者は労働力人口に数えるので、非労働力人口の中の就業希望者の表現はこうなります。

*8:この時間は平均値なので、実際にはやってる人はもっと長くやりますし、やらない人はまったくやらないというのが実態なのですが。

*9:もちろん、逆に言えば男性は家事育児に参加する機会を奪われているとも言えます。男性の長時間労働や過労死、自殺率の高さの問題なども、この観点から考えられなくてはなりません。

*10:そして、フェミニストに対して「ミスコン批判より○○に取り組まないのはなぜか、実証的根拠はあるのか」と言っていた人たちには「女性の経済的地位に関心あるなら反ミスコン批判より賃金格差問題に取り組まないのはなぜか、実証的根拠はあるのか」と尋ねますけどね

*11:論文の元になったと思われる同内容の報告書がWebで読めます(pdf注意)