『現代思想』の千田論考について

はじめに

 『現代思想 フェミニズムの現在』に収録されている千田さんの論考「『女』の境界線を引き直す―『ターフ』をめぐる対立を越えて」を読みました。いろいろと問題を感じましたが、それ以前に非常にわかりにくかったので、その点について簡単にまとめておきます。

 千田さんの論考についてはすでにトランス当事者の方が千田さんの論考に対しておかしいと感じる点を丁寧にまとめているブログがあるので是非読むことをおすすめします。

snartasa.hatenablog.com

  千田さんご自身はこのブログを「誤読だ」と言っています。

note.com

 けれど、以下述べていくように、私は千田さんの論考は構成も内容も決して明確ではなく「正読」が何であるのかを掴むのが大変に難しいと思うので、特に当事者の方がトランスフォビックに感じられる点を強く受け取めるのはある意味当然のことではないかと思っています。

主題設定について

 タイトルにもあるとおり、この論考の主題は「『ターフ』をめぐる対立」だと言われています。けれど私はまずそれがどんな対立なのか、タイトルを見てすぐにイメージできませんでした。

 読んでいくと、p. 247に「誰がトランス排除的なフェミニストであるのかをめぐって争いが起きている」と書かれていて、どうやらこれが「『ターフ』をめぐる対立」と言われるもののようだとわかります。

 しかし、この1年くらいTwitterで多少なりともこの問題をウォッチしてきた者として言えば、「誰がターフなのか」という争いはあまり(というかほとんど)見たことがありません。経緯の説明では我々が出した声明も言及されていますが、我々の声明は「トランスジェンダーに対する差別的な見解を憂慮する」ものであって、「誰がターフか」という問いとは無関係です。

  もう少し読み進めると、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」について混乱や対立があるという話が出てきます。これはそのとおりで、それを「解きほぐして考える必要がある」という主張にも全面的に同意します。けれどこれも「誰がターフか」という対立ではありません。

  結局、「誰がターフか」という(あまり見かけない)問いがなぜ考察の主題として設定されているのか、冒頭部分を読んでもよくわかりません。

1節「『生物学的女性』vs. 『セルフID』?」について

 よくわからないまま1節に進みます。タイトルだけ見ると、この節では「対立」の双方の主張が紹介されるのかなと思うのですが、中身はそうなってはいません。

  最初にバンクーバーの非トランス女性限定DVシェルターが攻撃されたという話が紹介されますが、これが何のための紹介なのかは説明がなく不明です。

 続いてJKローリングがマヤ・フォーステーターを擁護して「ターフ」と非難されたという話が紹介されます。「生物学的性別は2つしかない」「性自認で性別が決まるという"セルフID"で性別変更を可能にすると女性の権利が守られなくなる」というマヤの言葉が報道記事から引用されていて、タイトルの「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」はここから取られているのだとわかります。

 ではこの「対立」の中身が紹介されるのかと思うとそうではなく、「プライベートな場所の性別分離のあり方が問われている」という論点が引き出されて話は日本の女湯へと移っていきます。

  では「プライベートな場所の性別分離のあり方」をめぐる日本での議論が紹介されるのかと思うとそうでもなく、そこで書かれているのは千田さん自身の主張です。しかもそこでおこなわれているのは日本のトランスアクティビストの発言に異論を唱えることです。

 ひとつは「今日明日にでもペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージを喚起するのはあきらかにトランスジェンダーの排除を意図したデマです」という三橋順子さんの発言に対する、「将来の不安がかき立てられているという側面があるのではないか」という主張。

 もうひとつは「ターフがペニスのことばかり語っているのは異常な光景だ」という畑野とまとさんの発言に対する、「彼女たちの意味世界に寄り添えばそれは十分理解可能だ」という主張。

 このふたつの主張はどちらも問題含みだと思うのですが*1、それよりわからないのは、なぜここで千田さんが突然自分の主張をしているかです。三橋さんにせよ畑野さんにせよトランスフォビックだと思われるフェミニストの発言のおかしさを指摘しているわけですから、まずはフェミニストがどんなことを言っているのかを紹介しないと、三橋さんや畑野さんの発言がそれらに対するどういう批判なのか読者はわからないでしょう。その状態で三橋さんや畑野さんの発言に対する自分の異論を述べるのは、「対立」について(それがどういうものだと著者が考えているかを読者に伝えないまま)単に「ターフ」の側を擁護しているようなバランスの悪さを感じます。

  こうして結局「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立が何なのかは読者にわからないまま1節は終わります*2

 「対立」ということで、ここまで「誰がターフなのか」という対立、「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立の三つが出てきていますが、それぞれがどういう対立で、相互にどのような関係にあり、千田さんがどれについてどう考えたいのか、説明がありません。

 2節「ジェンダー論の第三段階」について

  2節では「ジェンダー論の三段階」なるものが提示されます。

 第一段階は「ジェンダー」という概念の登場で、「ジェンダーアイデンティティ」や「ジェンダー・ロール」が社会的に作られることが主張されたそうです。ジョン・マネーやロバート・ストーラーの名前が挙げられています。

 第二段階はポスト構造主義以降で、「言語」に着目することで「身体」も社会的に作られることが主張されたそうです。ジュディス・バトラーの名前が挙げられています。

 そして第三段階は現在入りつつある段階で、「身体もアイデンティティもすべては『フィクション』であるとされるのだったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張」だそうです。

 私も20年近くジェンダー論を勉強していますが、この三段階説は寡聞にして聞いたことがありません。私が不勉強なことを差し引いても、決して一般的に流通している説でないことは確かです。「私なりに大雑把に分ければ」と書かれているので、千田さんオリジナルなのかもしれません。

 さて問題は、オリジナルなことではなくて、この三段階説がよくわからないことです。私には、そもそも「段階」として成立していないように思えます。

 マネーのような性科学者を「ジェンダー論」と呼ぶことには違和感があるし、バトラーの読解にも異論はありますが、それはおいておきます。大雑把に「『性別は社会的に構築されている』という主張を学者が推し進めてきた」というくらいに受け取っておきましょう。つまり、第一段階は「アイデンティティやロールが社会的に作られる」という事実的主張、第二段階は「身体も社会的に作られる」という事実的主張だと受け取っておきましょう。

 ところが第三段階だと言われているのは「再構築は自由におこなわれるべきだ」という規範的主張です。これがどのような意味で「ジェンダー論の三段階目」なのか、二段階目までとの繋がりが私には理解ができません。

 具体例に挙げられているのはトランスの話に加えて「美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説」で、「身体は自由に作り上げてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している」のだそうです。

 ここを読むと、「再構築は自由におこなわれるべきだ」というのはジェンダー論者の主張じゃなくて、(「第二段階」の主張を受けて?)一般の人びとが持つようになってきた考え方を指しているように読めます。だとするならば、なおさらそれは「ジェンダー論の第三段階」ではないはずです。「人びとがそう考えるようになっている」ということと「ジェンダー論がそう主張している」ということは別のことですから。

  このように、この三段階モデルは賛同するかどうか以前に「段階」として理解するのが私には難しいのですが、このモデルを出すことで千田さんが何をしようとしているのかはそれに輪を掛けて理解するのが難しく感じます。

 2節の後半部分で語られているのは、スポーツとトイレについて、二元的な性別とは異なった仕方で分割線を引き直すことを考えよう、という主張です。この主張については私は方向性としてはほとんど同意します。けれど、この話が「三段階説」とどう関係しているのかがよくわかりません。「三段階目」に達すると、スポーツやトイレについてそうした見方が可能になる、ということなのでしょうか。けれど千田さん自身あまり「三段階目」の主張にコミットしているような書き方はされていないので、そう読むのも不自然に感じます。

 また、スポーツやトイレについて二元的な分割の維持を強固に主張しているのはどちらかといえばトランス差別的な発言をおこなっている人たちです。「トイレは性器で分けるべきだ」「女性アスリートの活躍の場が奪われる」という発言、たくさんありましたよね。千田さんはそうした発言に対して批判的だと理解してよいのでしょうか。「分割線の引き直し」を主張するのに、そうした夥しいトランスフォビックな発言について一言も触れていないのはとても奇妙に感じます。

 こうして、結論としては同意できそうな主張が、根拠がわからないまま主張され、またそれがこれまでに出てきたどんな「対立」に志向したものなのかも説明されないまま2節は終わります。風呂の話は「男性器をつけたままトランス女性が女性トイレや女風呂に入ること」をめぐる対立、スポーツの話はなんとなく「『生物学的女性』vs. 『セルフID』」という対立に志向しているように読めますが、それらの対立についてこれまで説明されていないので、千田さんの主張がその対立の中にどう位置づくのか読者にはよくわからないままです。

3節「ターフ探しがもたらすもの」について

 最後の3節はもうまとめのような内容です。「ターフ」という言葉を使って攻撃する人たちは相手の「差別意識」を問題にしていて、それは啓蒙主義的でうまくいかないし、うまくいかないから苛立ちが募って暴力的になるのでよくないよ、ということが述べられています。「差別意識」が問題になっているのかという内容にも異論がありますが、それ以前に1節2節の議論がよくわからないので、この結論めいた主張が前の議論からどう導かれるのかという論理が私には読み取れませんでした。

 おわりに

 結局、この論考ではどのような「対立」をどのように解きほぐすことが試みられたのか、私にはよくわかりません(そもそも「対立」のちゃんとした紹介すらないのです)。

 ものすごく好意的に読むとすれば、次のような筋を読めなくもないかもしれません

  • トランス差別に反対する人たちと、その人たちに「ターフ」と呼ばれる人たちが対立しています。
  • 「ターフ」と呼ばれる人たちの主張にも一理あるし、彼女らもトランスへの差別意識を持っているわけではありません。
  • 時代はジェンダー論第三段階で、社会は性別二元的な仕方ではなく分割されるようになってきています。その方向で多様性を尊重しましょう。
  • そのためには「ターフ」という対立を生む言葉で人を攻撃すべきでありません。

 けれど、こうして好意的にまとめて見るとよりはっきりするのは、「ターフ」と呼ばれる人たちがどんな発言をしていて、それらがどうトランス差別的であると言われているかについての考察が、この論考にはまったく存在していないということです。

 これは、「誰がターフなのか」という「対立」が主題として設定されたことにかかわる問題だと私は思います。トイレや風呂の問題にせよスポーツの問題にせよ、トランス女性を排除する言説があって、「ターフ」という言葉はそれに対する反発として使われているものです。2節後半で提示されているトイレやスポーツに関する千田さんの主張も、そうした排除の言説を批判し、それを乗り越えるためのものとして提示されていたら、もっと違った受けとめ方のできるものになっていたかもしれません。

 けれど、この論考はトランス排除の言説から出発するのではなく、それへの反発である「ターフ」という言葉の使用を出発点にして「対立」を捉えています。その結果、トランス差別についての考察が抜け、実際にどんな「対立」があるのかは不明瞭にされたまま、「ターフ」という言葉の使用だけが批判されるというアンバランスな議論になってしまっているように思います。出発点がおかしいのです。

 私は、「ターフ」という言葉が中傷の言葉として使われることがある、ということを否定しようとは思いません。私自身はその曖昧な言葉を使おうとは思わないので、なんなら「その言葉は使わないほうがいい」という点で千田さんと同じ見解を持ってさえいるかもしれません。

 けれど、その言葉が使われてきた背景には「フェミニスト」による苛烈なトランス差別的言動があります。この1年の日本語圏のTwitterに限ってさえそうです。「トランス差別的な言動をしている」と思われるから「ターフ」と呼ばれるわけで、その是非は別にして、元々の言動がどんなものでなぜ批判されているかについて何も具体的に触れないまま、「『ターフ』という言葉をめぐる対立」が何なのかを示すこと、ましてやそれを解きほぐすことなど、できるはずがないと私は思います。

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*1:たとえば「ペニスをぶらさげた人が女湯に入ってくるかのようなイメージ喚起が排除を意図したデマ」なのは、現在の話か未来の話かというよりも、性器はトランス当事者にとってこそ最もデリケートな場所であるのに「性器を他人に見せつけるように女湯に入りたがってる人がいる」というイメージで語ることにトランス女性への偏見があるからでしょう。そうした趣旨のことを多くの当事者が語っていたはずです。また「ペニスを恐れるのは理解可能だ」という理由に刑法の旧強姦罪規定を持ち出しているのもよくわかりません。「ペニスの膣への挿入」だけを特別視する刑法の性暴力観をフェミニストはずっと批判してきたのではなかったのでしょうか。この点はゆなさんが適切に指摘しているとおりだと私は思います。関連して、「男体」への意味づけの問題は私も1年前にブログに書いています。

*2:「セルフID」について読者に与えられる情報は「性自認で性別が決まる」という言葉だけなのですが、これだけ言われて問題を理解できる読者はいないと思います。法的な性別に関して言えば日本でも要件が厳しいだけで性自認にあわせて変更ができるのですが、日本も「セルフIDだ」とは千田さんは言わないでしょう。「セルフID」と言われていることについて考えるには、法的な性別の変更の要件(SRSを要求するのか、医師の診断を要求するのか、RLEを要求するのか等)が他国でどう変わってきていて、それに対して反発する人たちがどういう意味で「セルフID」という言葉を使っているのかを知る必要がありますが、「性自認で性別が決まる」とだけ言われてそうしたことがわかるはずがありません