『社会学評論』の千田論文について(1)

 『社会学評論』*1の72巻4号で、「ジェンダー研究の挑戦」という公募特集*2が組まれています。この記事ではそこに掲載されている千田有紀さんの論文「フェミニズムジェンダー論における差異の政治」について、私の簡単な感想を記しておきます。

 千田さんはこれまでも(ご本人の意図はどうあれ少なくとも結果としては)トランスジェンダーに対する差別的な言説をエンカレッジしてしまうことになるような文章を書いてきており*3、その事情を知る人たちの間には評論掲載の論文もそうなっていないかという懸念がありました。実際に読んで、残念ながらその懸念が払拭されたとは言い難いという感想を私は持ち、そしてそのことは日本社会学会の会員として表明しておくべきだと考えました。

1. 論文の構成に関する問題

 トランスジェンダーについての記述について検討する前に、私にはそもそも千田論文の構成がよく理解できず、結論として何が主張されているのかをうまく読み解くことができなかったので、まずこのエントリではその問題について先に触れておきます。

 論文では1節冒頭で「本稿では、日本におけるフェミニズムジェンダー理論の歴史が、いかなる『差異』をめぐる格闘とともにあったのかについて、論じる」と書かれています(p. 416)。したがってこの論文は、それを読んだ後で読者が「日本におけるフェミニズムジェンダー理論の歴史は、このような『差異』をめぐる格闘とともにあった(と著者は主張している)」と、(その主張への賛否はともかく)理解できるように書かれているのでなければなりません。

 さてそのことを踏まえて2節以下のタイトルを見てみます。

 まとめの7節を除いて各節の内容はおおむね時代を追って書かれているので、読者としては各節の内容を読むことで、それぞれの時代において「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」がわかることを期待することになります。ところが実際にはそう読むのが難しいのです。順に見ていきます。

2節

 2節の最初に出てくるのはオランプ・ド・グージュの話で、キャロル・ペイトマンジョアン・スコットの解説がそこに挟まります。ここでまず「日本のフェミニズムジェンダー理論」の話じゃなかったの?と戸惑います。

 続いて出てくるのは江原由美子上野千鶴子。「差異か平等か」というフェミニズムが直面してきた問いのもつ陥穽を指摘するそれぞれの議論が紹介されます。でも江原さんの議論も上野さんの議論も、第一波どころか第二波以降まで含めてのフェミニズムを振り返った上での20世紀後半の考察なのですから、これを紹介されても「日本における第一波フェミニズムがいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」はわかりません。ここで、「あれこの節の目的なんだったんだっけ」と迷子になります。

 続いて出てくるのはメアリ・ウルストンクラフトです。また時代が200年戻ります。しかも20世紀末の日本の議論の後に「イギリスのメアリ・ウルストンクラフトもまた○○を出発点としている」という文で繋げられています。「もまた」による比較の仕方が理解できません。

 その後2節も終わりの頃にようやく「日本に目を移せば」と平塚らいてうと母性保護論争の話が出てきます。「母性」に立脚して権利を求める平塚が「差異派」、それを拒否する与謝野が「平等派」のフェミニストだと著者は評しているので、この部分が日本の第一波フェミニズムにおける「差異」をめぐる格闘だということになるのでしょうか。しかしそうであるなら、平塚や与謝野らの議論を中心に1節の内容はまとめられるべきであり、大部分を占めるそれ以前の部分は余計であるか少なくとも中心的主題とされるべきではないはずです。つまり、1節で告知された論文の課題に節の内容が対応していません。

3節

 3節に進むとウーマンリブの話になります。こちらは「日本の第二波フェミニズム」の話になっているようです。取り上げられているのは田中美津の議論です。母性神話批判、性別分業批判、近代国家のシステムの中に「女」がどう組み込まれているか、優生保護法改悪反対運動の議論などが紹介されています。

 これらの議論はウーマンリブについて勉強したことがある人なら詳細を知っているかどうかは別にして目にしたことはあるだろうと思います。さて、では著者はこれらの議論をどのように「差異」をめぐる格闘として読み解くのかなと思って読むと、その議論が出てこないまま3節は終わります。じつに3節には「差異」という言葉が一回も出てきません。紹介されている部分だけを見ても、田中美津の密度の濃い言葉には、男女間の差異のみならず、「人間の標準」に入る者と入らない者の差異、障害を持つ者とそうでない者の差異など、さまざまな「差異」が語られています。「いかなる『差異』をめぐる格闘があったのか」を示すことが論文の課題とされているのに、その複雑さの読解を読者に丸投げするのはちょっとありえないと感じます。

4節

 4節は「ジェンダー」概念について、ジョン・マネーの紹介による「氏か育ちか」的なジェンダー概念の捉え方から、ジュディス・バトラーの紹介による「セックスもジェンダーである」的なジェンダー概念の捉え方への移行がごく短く解説されています。内容的にはジェンダー概念の深化によって「差異か平等か」という問いの前提自体が問い直されたということが言いたいのかなと好意的に読むことはできますが、やはりまた「日本のフェミニズムジェンダー理論」はどこいったの?という気持ちになります。この節でこそ2節でさらっと触れられていた江原さんや上野さんの議論が重点的に紹介・検討されなければならないのではないでしょうか。

5節

 5節は岡真理のアリス・ウォーカー批判が批判的に紹介されています。「ポジショナリティ」をめぐる議論ですね。これもフェミニズムを勉強していればどこかで目にする話でしょう。さて気になるのはやはりこの議論の紹介がどのような意味で「日本におけるフェミニズムジェンダー理論における『差異』をめぐる格闘」の読解になっているのかということなのですが、それを論じた部分がありません。5節にも「差異」という言葉は一度も出てきません。ポジショナリティをめぐる議論にも、第一世界/第三世界、人種的マジョリティ/マイノリティなどさまざまな「差異」が登場するわけですが、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論」がそれらの差異とどう格闘した(と著者が理解しているの)かは語られないのです。

6節

 さて6節がトランスイシューについて取り上げられている節です。トランスイシューに対するおかしな記述については後で指摘するとして、論文の構成という点から言ってこの節は特に異様に見えます。何が異様かというと、2~5節はまがりなりにも「フェミニズムジェンダー理論」の著作の紹介がおこなわれていたのに対し、この節でおこなわれているのは著者自身による時代診断なのです。いわく、「差異と平等」言説はすでにフェミニズム批判の役割を果たしていない、「多様性」のロジックによって女性の公的領域への進出を是とするフェミニズムが受け入れ可能となった、身体的な差異から解放された、その逆接として共同親権をめぐる問題なども起こっている、等々。

 こうした診断の多くについて私はよく意味がわからないという印象を持ちますが、診断への賛否とは別にそもそも著者自身の時代診断を語ることは、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論がいかなる『差異』をめぐる格闘をしたのか」を考察するのとはあきらかに別のことですから、読者としてはこの節が論文の目的に照らして何をしているのかが理解できません。かろうじてトランスイシューを論じる段でバトラーと清水晶子の議論が出てきますが、あくまでトランスイシューにおける著者の批判相手として登場するだけであって、「日本におけるフェミニズムジェンダー理論」がどんな格闘をしている(と著者が言いたい)のかはそこからはわかりません。

7節

 こうして、2~6節はどれも1節で告知されていた課題を十分に遂行できていないように私には見えます。各節は時代順に並んでいるように見えるものの、その内容に構成上の統一性は感じられず、必要と思われる解説もありません。結果、どんな「格闘」があったと著者が言いたいのか、私はうまく読み解くことができません。

 せめてまとめの7節を読めばヒントが得られるかと思って読むと、さらに驚きます。7節の冒頭には、「以上、フェミニズムが何を課題とし、「差異」を扱ってきたのか、ジェンダー概念について着目しながら論じてきた」と書かれているのです。「日本の」はついに消えてしまいました。2節3節のジェンダー概念の登場以前の時代についてはどう「ジェンダー概念に着目」されていたというのでしょうか。まとめ方があきらかに不適切で、1節で告知された課題との整合性がとれていません。

 さらに次の文は、「近代社会の黎明期から完成期まで、フェミニズムは「性的差異と平等」をめぐって格闘してきた」と続きます。「日本の」はどこいったという話は置くとしても、紹介してきたフェミニズムの議論を著者は「性的差異と平等」をめぐる格闘としてのみ捉えているのでしょうか。田中美津の議論にせよ岡真理の議論にせよ、他の多様な差異が絡むからこそ論じるべき問題があったのではないのでしょうか。さすがに「差異」ということで「性的差異」のみが意味されていることはないと思うので、ここはきちんと校正がされていないのでしょう。こうして最後まで「?」が消えることなく論文は終わります。

小括

 以上見てきたように、この論文には構成上問題と感じられる点があり、しかもそれがチェック・修正された形跡もあまり見られません。論文固有のfindingsを探して読むには「差異との格闘」なるものについての解説が足りず、フェミニズムの議論の概説的な紹介として読むには各節の内容に統一性が足りません。結果、何が主張されているのか読み解くことが非常に困難なものになっていると感じます。

 私は、こうした不備の多くは通常の査読プロセスを経れば修正されていたはずのものと思います。公募特集ということで甘くなる部分を考慮に入れたとしても、編者のチェックが十分ではなかったのではないでしょうか。だとしたら残念なことです。

 とはいえ、このこと自体はさほど大きな問題であるとは私は思いません。査読というのは完璧なことを期待するシステムではないですし、公募特集であればなおさらです。読者である研究者があまりよくないと思う論文は後続の研究において参照しなければいいだけで、学問というのはそういうものです。

 私が問題だと思うのははむしろ、トランスイシューに関して問題あると思われる6節の記述が、このエントリで述べてきたような全体の構成のまずさに紛れて修正を免れてしまったのではないかと思われる点です。なので記事をあらためてその点について述べます。

*1:日本社会学会の学会誌で、社会学業界内では「評論」と呼ばれます。日本国内の社会学系学術誌ではもっとも地位が高く、キャリア初期の研究者にとっては「評論」に論文が掲載されることは業績におけるアピールポイントにもなるような雑誌です。

*2:公募特集というのは通常の投稿論文とは別に、編集委員が設定したテーマについて会員から寄稿を募る企画です。査読プロセスは投稿論文より緩くなりますが(要旨による選抜で採択されると掲載前提で話が進む)、挑戦的なテーマを扱ったり当該テーマをめぐる研究の到達点と課題を提示したりするのには適しています。

*3:たとえばこちらこちら