千田有紀「LGBT法案をめぐる攻防が炙り出した『ねじれ』」についての補足

 この記事はこのツイートについての補足説明です。

 言及対象となっているのは『論座』に掲載された千田有紀さんの「LGBT法案をめぐる攻防が炙り出した『ねじれ』」という記事です。

 千田さんの記事は全体的に

  • 「現状認識」+「現状についての両論併記」

とう形で記事が書かれていて、その「現状認識」の部分がネットで仕入れた排除言説になっているように見えます。だから「両論併記」の部分にはトランスの権利を部分的に擁護するかのようなことも書かれているけど(そして本人はおそらく本気でそのつもりなのだけど)現状認識がおかしいので全体としてトランス排除言説をエンカレッジする文章になっています。

 以下ツイートした二点についてだけ説明します。


(1)「トランスセクシュアル性同一性障害」と「トランスジェンダー」の対比について

 記事中では

という認識が提示され、そこから一方で

という、排除言説の中でよく用いられる紋切り型の表現が、他方で

  • 「私たちの社会が……性別2分法を前提として、公正や安全をつくりあげてきたかを、ぎゃくにあぶり出す結果になっている」

と、社会のシス中心主義を問い直しトランスの権利を擁護するような表現が出てきます。

だから両論併記っぽく見えるわけですが、実際にはP1の認識に問題があります。歴史的には「トランスジェンダー」というカテゴリーがアンブレラタームとして使用されるようになったのは、病理としてのスティグマが付与された「トランスセクシュアル」カテゴリーへの抵抗からでした。

【文献紹介】タリア・ベッチャー「トランス初級講座」第2節「トランス/トランスジェンダー/トランス* 用語法」 – Trans Inclusive Feminism

【文献紹介】スーザン・ストライカー「「トランスジェンダー」の旅路」 – Trans Inclusive Feminism

性同一性障害」についても基本的には同様で、この病理カテゴリーはすでになくなることが決まっています。

 したがって、「トランスセクシュアル性同一性障害」と「トランスジェンダー」は、一方が病理カテゴリーであり、他方がアイデンティティにもとづくカテゴリーである点で質を異にしており、単純に一方が他方に包含される関係にはありません。

 記事中では「性同一性障害」について、「性別違和」「性別不合」に「置き換わりつつある」と述べられていますが、そこに脱病理化という歴史的背景があることはなぜか一切述べられていません。著者が引く学術会議の提言も、「医学的モデルから人権モデルへ」というその背景のもとに書かれているのに、その背景の説明がありません。

 このような歴史的背景の捨象はトランス排除言説によく見られるものです。そこではトランス差別への抵抗の歴史という観点からではなく、「私たち」というマジョリティの主観から、「トランスセクシュアル性同一性障害」のことは「想定内」で「トランスジェンダー」のことは「想定外」であるという区別がなされます。その上で、「トランスセクシュアル性同一性障害の人は病気だから認めてもよいけど異性装も含むトランスジェンダーはちょっと・・・」という、病理カテゴリーのもとでトランスジェンダーを異化・他者化しつつ(自分たちとは異質な特別な存在として遠ざけながら「認める」立場に立ちつつ)、異性装への偏見が強化されるのです。

 当然ながら千田さんは当然そこまでは書いていませんが、「私たちが○○と聞いて頭に浮かぶのは・・・」という「私たち」の設定の仕方はそうした排除言説とまったく同型です。おそらくは、トランスにかかわるカテゴリーについての知識の入手先が偏っているために、両論併記っぽくしても前提がトランス排除に偏ってしまっているのです。


(2)ジェンダーアイデンティティを尊重することの帰結について

 もう片方も同様で、まず

  • (P2)「男女の二分法の基準が「身体」から「アイデンティティ」へと移行すれば、「女性用のあらゆるスペース」を「性別適合手術を受けていないひとやパス度の低い人」が利用することはなんの問題もなくなる

という認識が尾崎氏のツイートの引用から示され、一方でそれに対して

  • 国際的な基準であり、的を射ている

と肯定的な評価がされ、他方で

  • 「女性用のあらゆるスペース」を開放することはできないと主張する女性たちの意見に、即座に「差別」というラベルを貼ることの是非は、議論されるべき事柄だ

と女性の安心や安全という観点から限定をかけるような評価がされます。

 だから両論併記っぽく見えるわけですが、実際にはP2の認識に問題があります。

まず法的な性別変更手続という点から言えば、尾崎氏のツイートにある「手術要件の撤廃」と、記事中に書かれている「医療や司法を経ないジェンダーアイデンティティの尊重」というのは独立の話です。手術が必要なくなっても医師の診断や実生活経験が要求される国もあります。どのような制度がよいかという議論はすればよいと思いますが、ここではそれなしに認識が「より極端に見えるほうへ」滑っていっていることがわかります。

 また、法的な性別変更手続をどうするかという話と、性別スペースをどう運用するかというのも独立の話です。法的な性別がどうあれ、性別スペースは差別が生じないよう原則性自認を尊重する、逆にスペースの特性に照らして必要であれば性自認とは異なった区別を例外的に許容する、といった制度設計もありえます。英の平等法はそんな感じですね。

【文献紹介】ヴィック・ヴァレンタイン「自己宣告は英国の制度を国際的に見て最良の仕組みにあわせるものだ」 – Trans Inclusive Feminism

 いずれにせよ、法的な性別変更の話から「女性用のあらゆるスペースが開放される」という結論を導く議論はひどく短絡的で、「国際的な基準」といいながらかえって具体的な制度の話からかけ離れてしまっているものです。

 そして、このように短絡的な議論を設定しておいて、それによって「女性スペースの安全が脅かされている」と不安を煽るやりかたもまたトランス排除言説によく見られるものです。特に記事中では現実的な制度運用の話をしている弁護士さんの発言が「トランスフォビックだ」と言われていますが、このように自分で設定した短絡的な議論から現実の法や制度についての話を「フォビアだ」と言ってみせるのもトランス排除言説の紋切り型そのものです。

  このように、ここでも両論併記の前提となっている認識に大きな偏りがあります。そもそも法や制度の「国際的な基準」の話をするのに尾崎氏の一ツイートを根拠として持ってくるの、意味わからないですよね。論点と直接関係ないツイートまだがただ尾崎氏の人物紹介のためだけに引用されている点も、「晒し」がしたかったのかなと勘ぐられても仕方ないでしょう。

 他にも「レズビアンがトランス女性を恋愛対象としないとトランスフォビアだと言われる」というような粗雑な認識がいくつかありますが、だいたいどれも全体的に上で説明したような仕組になっています。

 したがって、Pの含む偏った認識に共感する人は「千田さんが自分たちを擁護してくれた」と思えるし、共感しない人は「一見トランス擁護みたいなことも書いてるけど排除言説と同じだよな」と見えるし、そもそもPについてよく知らない人には両論併記に見えるでしょうという話。